中島飛行機製作所空爆の惨状
濱田 毅一(はまだきいち 一九二三年生)
昭和二十年(一九四五)の頃、戦況がいよいよ悪くなって、私達学生にも学徒出陣の命が下った。しかし理科系の学生は、学業が中途半端では折角の能力も使い物にならないとの理由で、卒業する迄の間、徴兵を延期された。それでも勤労奉仕で私達は日本鋼管や、当時三鷹にあった中島飛行機製作所の工場に動員された。中島飛行機製作所は私達が勤労奉仕に行く前に、既にB29爆撃機に依る空襲を何回か見舞われていたが、私達が勤労奉仕に行っている時に、米空軍の艦載機による止どめの大空襲を受けた。
当時は予め情報が前以て判っていたのか、朝から何となく緊張した雰囲気が漂っていた。工場内の女子挺身隊や動員された学生、工員等は早くからトラックに分乗して、工場から離れた周辺の地に疎開したが、私達は救護要員として工場内に残され、敵の飛行機を激撃する為の高射砲隊員と、火炎の消火に当たる消防士、防空要員と共に工場内のそれぞれの場所に配置された。
当時B29爆撃機に依る空襲は、飛行機が日本の本土に侵入すると、富士山を目標にしてそこから右へ旋回して、中央線の電車のレールに沿って東京へ向うコースを執っていたので、其のコースの工場より手前に位置していた中島飛行機製作所の病院は、空爆の際の誤爆に因るものか、完全に破壊されていた。其の為に当日の救護所は、地下一階の通路近くに設営されていた。工場内の地下道は蜘蛛の巣の様に張り巡らされてあったが、米軍の爆撃機は二百五十キロの爆弾を積んで来ており、爆弾は四階建の鉄筋コンクリートの上から一階まで穴を穿ち、地上一階で炸裂する様になっていたので、上に建物の無い地下道に一発爆弾を落とされると、救護所は全滅する処に位置していた。
空襲警報が鳴り響くと、今日此処は戦場になるのだ、と一瞬緊張が走る。空襲が始まると敵の飛行機に応戦するわが方の高射砲の発射する砲弾の炸裂音と、殆ど同時に米空軍の二百五十キロの爆弾の炸裂する凄まじい音と振動、それと間髪を入れず救護所に運び込まれる高射砲隊員の負傷兵。米軍が真先の攻撃目標にしたのは高射砲隊の陣地だったのだろうか? もっともな事である。
爆撃が始まると途端に電線が切れて、地下道はもう真暗闇になっていた。勿論スピーカーの配線も切れてしまって、情報は全く入らなくなっている。非常用に使用する為に各人に持たされていた代用蝋燭による僅かな明りが、せめてもの頼りであった。
爆弾の炸裂によって、重傷を受けた高射砲の隊員が次々に運び込まれたが、中には既に事切れている者、衣服も切り裂かれて、手足をもぎ取られた者もいた。血まみれになって、救護処置を願って悲鳴をあげて叫び騒ぐ有様。救護所は修羅場と化し、その阿鼻叫喚は正に此の世で見せられた地獄絵その物であった。
其の中にあって敵襲の合間を縫って、重傷者を外部の病院に転送する為のトラックへ積込む作業を、未だ幼いともいうべき看護婦が二人一組で重い担架を担いで、消火ポンプの数十本も並んだホースを跨ぎ踏みながら活躍する姿があった。
其の間にも米軍の急降下爆撃は続く。私は爆撃機が急降下してくる態勢を見て、教えられた様に指で眼と耳を押えて、室内のベッドの下に身を伏せる。そこは四階建の建物だったが、爆弾が炸裂すると建物は、大地震の時はこんなものだろうかと思う様に揺れ動く。私は爆風でベッドの下から吹き飛ばされてしまったが、それでも幸に直撃を受けなかったので命拾いをした。
建物の四階に負傷者がいるという報せで収容に行くと、階段は既に瓦礫のスロープに変わっていて、其の瓦礫の上を這う様にして攀じ登ると、手も足も無く胴体だけが焼け焦げている者もあり、もぎとられて鉄兜に顎紐で結ばれたまま無残にも転がっている首もある。そして死体は上着に付けられてあった名札も焼けて事切れているので、誰だか姓も判別出来ない者もあった。何と悲惨な姿だろう。此れは私が見ただけの一部の光景であって、こんな惨事があちこちで繰り広げられていたに違いない。
一夜が過ぎて翌朝工場に行くと、昨日の騒音は嘘の様に静まり返っている。照明の無くなった地下道は、処々に爆弾が落ちて出来た穴から光が斜めに差込んでいる。そして昨日の消火に使われた水が流れ込んで水浸しになっている。其の地下道に昨日まで活躍された人達が物言わぬ死体に変り果て、水浸しの中で覆い一つ掛けてさえ貰わずに、ズラリと一列に唯黙って横たわっている。
耳を澄ますと昨日の消火の水がいまだにポタリ、ポタリと地下道に出来た水溜りに木霊して、不気味な音を立ててあたりの静寂を破る。此の僅か周囲四キロの工場内で一日の内で仏に成られたのは、何百体あったのだろうか。戦時中の事とて数の発表は無かったけれども。
それからというものは、中島飛行機工場への勤労奉仕中は、前日の空襲の際、どこへ落されたか判らない時限爆弾が、突如として轟音と共に炸裂することもあった。そんな時、どうせ学校を卒業すれば戦争に直接参加せざるを得ない身、いつ死んでも少し早いか遅いかの違いで、戦争で死ぬ事には、どちらにしても同じ事で、私が丁度このような時期に生れたのが運が悪かったのだと思う様になった。
やがて八月十五日終戦。ああ、これでこれからは戦争で殺されなくても済むのだ、生きて行かれるのだ。又見ず知らずの他人を、然も個人的には全く何の恨みも無い人を、竹槍で突いて殺したり、自分が発射した銃弾や、剣で殺したりしなくて済むのだと、本当に良かった、有難い事だと思った。
以来私は父母から本当に幸運の星の下に戴いた命、神から授かった大事な命と思って感謝し、自分勝手な所行で命を粗末にしてはいけないのだと、深く思う様になった。
もう二度と戦争をしてはいけない。食べる物も無く、唯やっと生命を繋ぐだけのぎりぎりの食料で、何時も死を覚悟させられて、生活せざるを得なかった精神的重圧の日日であったが、それに耐えて来た力は、戦争がもたらした唯一つの収穫だったのだろうか。そして戦争で命を落された多くの人達を見て、命の大切な事をつくづくと身に浸みて感じ、自分が生かされている幸福に感謝している。