緩和ケアで人は本当に癒されるのか ―私達の成すべきことは―
須磨赤十字病院 塩崎 節子
はじめに
今まで数え切れないほど死の瞬間に立ち会ってきたが、良かったと思えるものは何もなかった。それは患者不在の意思決定がもたらすものかもしれない。誰のための治療のなのか、何のための医療なのか、家族は最後に必ず「お世話になりました」とか、「ありがとうございました」というがそれは本心なのか、この疑問が研修への参加動機である。
知らないことは罪なこと
今回の研修中に何度も繰り返し思ったことがある。「知らないことは罪なこと」である。本当に知らなかったことが多くあり、今更ながら自分の勉強不足を思い知った。疾患や看護援助については分かっていたつもりであったが、まだまだ足りていなかった。また「死」についても心で理解できていなかった。
「その人」を置き去りにしている
コミュニケーションの講義のなかで3通りのロールプレイを行ったが、それぞれの立場になることで心理変化が客観的に観察できたと思う。自分が患者役になったとき様々な思いが交差し複雑な心境だった。看護者として心配していてもどこか「観察しなければならない」とか「聞かなければならない」と考えている自分がいた。症状に気を取られすぎて、肝心の「その人」を置き去りにしていたと思う。では「その人」を知るためにはどうすればいいのか、それは入院時の情報収集から得られると思う。最初の情報収集は非常に重要で患者は看護者に様々な期待をもって会うのであるといわれている。このときがラポールの確立、思いを共有する場であるからである。研修の中でいろんな事例検討が行われたが共通することは情報収集が決められた項目を順番に聞いているだけであり、患者に自由な話をしてもらいその中から情報を聴くことはされていないのである。私自身もそうであった。聴くことの難しさと熟練した会話能力の必要性が理解できた。更にもっと「その人」を知るためには性格を詳しく聴くことが必要だと思う。情報欄には性格があるがこの項目はあまり重要視されていないのが現実である。性格を知ることによって今後「その人」が辿る病状の過程の一部を予測することができると思うからである。入院期間は年々短縮されてきている。だからこそ情報収集のあり方が今後の展開を容易なものにするか困難なものにするかを分けると思った。
症状の緩和がもたらすもの
症状の緩和については、今回の研修で一番学習したかったことである。主に疼痛緩和に欠かせないモルヒネについての誤解は常にあり、一般病院ではモルヒネ投与はかなり我慢を強いた末にほんの少量使うだけであり、それで使ったと思い込んでいる。患者が何度痛みを訴えても主治医は「痛み止めは足りているはず」と言い増量はありえないことが多い。更に医師や看護婦は、患者には「頑張れ頑張れ」と無責任な励ましをしている。そんな状態が嫌で「こんな痛いのなら、早く楽になったらいいのに」と家族や看護者は思ってしまっていた。
疼痛コントロールができないために患者や家族だけでなく看護者にも同じ思いを抱かせている。たぶん医師も同じことを思っているのではないだろうか。ある講義のなかで身体的な安全が保障されなければ人は学習できないと言うことを聞いた。これは非常に納得のいく言葉だった。家族と看護者は、常に患者の傍らにいるために患者の身体的苦痛を自分自身の事のように受け止めてしまうので、同じように悲観的になっているのだと理解できた。しかし、症状のコントロールができない医師だけが悪いのではない。そのことに対して適切な介入ができていなかった看護者である私も同じであったと思った。このような結果になるのは、チームアプローチが出来ていないためと、学習不足が招いていたのだと思った。
症状コントロールが正しくされるだけで、どのような病状でも普通に生活していけるのだと改めて思った。その症状を最終的にコントロールするには患者自身である。患者不参加の医療では症状のコントロールはありえないのだと思った。そのためには患者自身が自分の体について知っておかなければならないと思う。
チームで支える
チームアプローチがこんなに重要だと思わなかった。一般病棟ではそこまでチームアプローチがされていない。医師のパターナリズムが依然として強いことも影響しているが、患者自身に自分のことは自分で何とかできる能力がまだあるからなんとか乗り越えられていると思う。しかし緩和ケアを必要とする患者にはパターナリズムの強い病棟では、全くと言っていいほど緩和されない。医師だけ、看護婦だけではその人を支えきれないからである。がんになると本当に多くのものを失くしてしまうのだと感じた。本来なら誰の力も借りずに自分で行えていたことができなくなるのである。看護者が一人あるいは看護チームで頑張っても専門分野以外には限界がある。結局思いは空回りしてしまっている。私達看護者は自分たちですることにとらわれすぎているところがある。誰がするかは問題ではなく、患者にケアが提供されているかどうかが問題なのだと思った。この講義の中で看護者の役割がはっきり掲げられていた。以下のとおり、[1]苦痛の予防、[2]身体的な不快、苦痛の緩和、[3]精神面、情緒面での支援、[4]患者・家族の意志決定への支援、[5]ケアのコーディネーション、[6]教育・指導である。なかでもケアのコーディネーションは看護者のマルチな部分の本領発揮ではないかと思った。
チームを機能させるためには緩和ケアのみに関わらず患者を大切に思うのと同時にチームメンバーと協働できないと良いケアは提供できない。チームで協働すると自分の「価値観」だけにとらわれず様々な角度からケアを提供でき、更に患者支援のネットワークができることで選択肢に広がりが生じ、患者自身のセルフ能力を高めることになる。もうパターナリズムから脱却しないといつまでたっても誰も満足のいく結果はもたらされないと思う。
看護者は孤独や寂しさ、哀しさを癒すことができるのか
「死」を目前にした人は、言いようのない孤独や寂しさ、死んでいく悲しさを感じている。このような場合の看護介入として、一人にさせないとか、寂しさを感じさせないような援助を行っていくと言われている。確かに、一人にさせないことはできるが、そのとき看護者に側にいてほしいのかどうかは別の問題だと思う。患者は誰に側にいてほしいのかを知っておかなければ間違った援助を行ってしまうことになる。また一人にさせてはならないと思い込み、患者の思いを聞かずに一方的になっていることはないのだろうか。本当は一人になりたいと思っているのかもしれないということも考えなければならないと思う。
また、言葉がけの難しさを考える。安易に「あなたのことを忘れない」など使ってしまうと言葉だけが浮いてしまうように思える。その場の状況にとって付けたような言葉に人は感動しない。よく思い出作りと言われているが、このことにばかり注意をしすぎているからこのような言葉が出てくるのではないのだろうか。
次に看護者に宗教心があれば患者を癒すことが可能になるのかということであるが、このことに疑問がある。人が人に感動し共感するのは真心であると思うし、宗教ですべてが解決されるとは思わない。それと宗教関係の病院でないと無理だという発想にも疑問がある。確かに宗教関係の病院にはパストラルワーカーがいるが、これがキリスト教関係だけというのが変な話だ。確かにこの分野では現代の仏教神道は遅れを取っている。しかし、対象を日本人に限って考えると、たいていの人は生きてきた生活の中にキリスト教が関係しているのはクリスマス、結婚式ぐらいだろう。ましてや高齢者になるともっと縁遠い存在だと思う。別にどんな宗教でもその人が救われればいいのではないかと思うが、最近の仏教、神道はビジネス化し、世襲制の要素が強くなっているので無理なのかもしれない。
最終的に思うのは患者が自分自身を最期まで見捨てないことが一番重要で、そうさせないようにサポートしていくことが看護者の役割と思う。患者の心を癒すのは患者自身でしかないと思う。
成すべきことは何か
・ Bad news tellingを恐れない。現実を知らずして本当の未来はないからである。このとき医師が自分の都合だけで告知することがある。このようなとき、誰のために何のために悪い知らせを伝えるのか話し合うことが必要である。
・ 患者との価値観の違いを認め埋めていく。
・ 確実な看護技術を提供する。患者が看護者を一番信頼するのは質の高い看護技術が提供されたときである。科学的根拠に基づいた看護技術は専門職でしか提供できないので更に技術に磨きをかける必要がある。
・ 目に見える患者の変化は捉えやすいが、目に見えない精神面の変化は把握しにくい。私達が関わらなければならないのは患者と家族である。彼等が現在どのような心理状態にあるのかを言葉、表情、行動から考えることが必要だとされる。
・ 問題を引き起こしている原因がどこにあるのかを知るため患者と話すこと、近づくことが大切である。
・ ホスピス・マインドが必要。
・ 患者が亡くなるということは、家族にとっては家族の一員が永遠に失われることであり遺族の喪失感は、計り知れない。患者のことを思う心、ケアの満足度、その他様々な要因により悲しみからの回復の時期は異なってくる。心の傷を軽減させるためにも遺族ケアは大切である
・ 遺族の悲しみを少しでも軽減できるように、早期からグリーフケアが必要とされるが、亡くなった後も約1年近くは必要である。
おわりに
人は死ぬ、分かっているようで分かっていない。私達は「死」を肉体的にしか捉えられていない。いざ「死」が近づいたとき、不安・絶望・混乱・あきらめなど様々な心理変化が生じ受け入れられない状態になる。ともすれば、検査データのわずかな改善に一喜一憂している。あまりにも「死ぬ」ということを考えていない自分達を知った。
生命倫理の講義の中で「ガバ」、人生の中で光り輝く一瞬がある、そのとき人は変わるとあった。非常に心に残った。人は死期が近づくほどに命の炎を燃やしていると思う。最期にもう一度「ガバ」が訪れたなら逝く人と残される人双方に不幸な思いは残らないのではないだろうか。
私達は症状コントロールさえつけば緩和されたかのように思う。しかし、これは「死」について考える終わりのない苦悩の始まりであり、このときからのかかわりが人として問われるのであると思った。そのとき自分の心を隠さないことが重要だと考える。心を何かで偽っているとしたら真にその人の心に触れることはできないからである。ありのままの姿というのは警戒心を防御できる最高の方法ではないだろうか。そして自らの人生観、死生観を基盤にどのようにして患者、家族をサポートしていけるか、常に一期一会の気持ちで、患者や家族の心に響く看護が提供できるよう努力していきたいと思う。
参考文献
1) 小原 信 ホスピス いのちと癒しの倫理学ちくま新書 1999
2) 小原 信 哲学的散文詩 あかさたな 以文社 2001
3) 保坂 隆 ナースのためのサイコオンコロジー 南山堂 2001
4) G.O.ギャバード 精神力動的精神医学[1]理論編 岩崎学術出版社 1998