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生と死を哲学するということ
 社会保険神戸中央病院 森田 恭子
 
はじめに
 
 緩和医療の目指す“全人的ケア”とは、患者の苦痛を身体的だけでなく、精神的、社会的、霊的にも把握し、それらが相互に関連する全人的苦痛(total pain)として理解しこれらをケアすることが重要とされる。“自然科学的アプローチ”とは、客観的であり観察を重んじ、数量的、外的、部分的、規範的であり、知識と技術が重要視される。“人間科学的アプローチ”とは、全体として人間を理解することである。これは主観的であり、体験を重んじ、質的、内的、全体的、個人的であり、理解と意味が重要な位置を占める世界である。緩和医療においてはこの両者の統合と調和が重要となり、自然科学的なものの見方と同様に人間科学的な見方、人と人とが通じ合うこと、心と心が触れ合うこと、人格と人格とが対話することが、ますます大切になってくると言われている。1) 看護婦として、緩和医療に携わるようになってから3年が経とうとしていた。“生きるとは何なのか、死に直面している人を、私という限界ある人間が、どう理解しどう向き合っていかなければならないのか”と、常に心に問いかけてきた。臨床の場では、多くの困難なことを経験するが、それ以上に看護婦としての醍醐味も多く、充実感や達成感も得られるからこそ看護が続けられるのだと感じている。そして今回の「緩和ケアナース養成研修」への参加に恵まれることができ、6週間の研修で得られたことは自己の振り返りとなり、また新たな発見もあり自己洞察への機会を得ることとなった。そして同じ道を歩む仲間との出会いがあり、講師の先生方、実習施設のスタッフおよび患者家族それぞれの方との出会いにより、更にパワーアップできる事へとつながったと考える。研修を通し、学び得た大きなことは「価値観の尊重」ということである。医療者が“こうあるべき”と思った瞬間に、それは患者個々におけるその人らしい死(=生)ではなく、また患者の価値観とは異なったものとなる。倫理的な思考をしっかりと養い、私達自身が望むことではなく患者および家族が何を価値としてとらえているかを常に考えていかなければならない。そして自分自身の価値観をおいて、そのギャップをどう埋めていくか、いかにそこに自分自身をコミットメントしていけるかが重要となる。“全人的な視点から、患者とその家族を理解し価値観を尊重する”ということを視点におき、パターナリズム的な価値の押しつけが行われることのないよう、また何をしなければならないのかをつねに心に問いかけながら、アプローチしていかなければならないということを学んだ。藤腹は、「看護の対象は人であり、看護学は人が人に関わる領域の学問である。しかも、看護の対象およびその内容は、人間の誕生前から死後の世話までを含め、「いのち」の「生老病死」のすべてに関わるものであり、そこには当然のこととして科学の力や人間の力では解決できないことも多々存在し、生じてくるものと考えられる。看護や看護学は科学の対象となる事象のみならず、「癒し」や「救い」という領域の事柄をも問われる学問である。そして、看護が人間の「生老病死」という「いのち」の営みの過程に関わる行為であるという点において、科学的な認識も非科学的な認識も、ともに重視される必要がある。」2)と、述べている。
 今回の研修の学びを統合し、自分なりの視点から特に印象深く心に残ったことについてまとめてみたいと思う。
 
生と死を哲学するということ
 
 山口赤十字病院、末永和之先生の「緩和医療」の講義の中で、“ホスピスとは哲学である”と言われた言葉に深く感銘を受けた。
 渡邊は、「哲学とは人間にとって重要な事柄について雑事に追われた慌ただしい日常の営みを一瞬停止して、偏見や先入観にとらわれずに、その事象の本質をあるがままに捉えるべく反省的によく考え直してその事実を洞察しようとする知的営為のことにほかならない。しかもそのような洞察を得ようとするのも、それによってより良く生きるためにであり、人生の根拠をしっかりつかんでより充実した人生を生きるための人生観・世界観的な知が、哲学にほかならない。そうした哲学にとって「死」の問題は、古くから人生の根本問題として自覚されていた。プラトンの対話篇「パイドン」によれば、ソクラテスは哲学を「死の練習(メレテー・タナトゥー)」と呼んでいた。すなわち「哲学」とは、死を恐れずに平然と死ぬことができるよう日頃から覚悟を定めておく心の訓練である。」3)と、述べている。演習「死生観を考えてみる」の講義での詩の中にも、“明日死んでもいい様に今日を生きる”とあった。自己を振り返ったとき、家族や親類、友人、知人の死を多く体験するようになり、自然に死は身近な存在であると意識せざるを得なくなり、自分のこととして捉えるようになっていた。そして演習では、自分ががんになった時のことを考察し、愛する人達へそれぞれ遺言状を書き記した。まさに自己の死を直視し、覚悟を定めておく心の訓練を行ったのである。死ぬまでの今をどう充実させて生きるのか、エネルギーを使い果たし深く考察し自分自身を見つめ直した。その結果から得られたことは、死という永遠の別れを認識したときに人間は、一番大切なものとは何かを考えるということである。人間は、「生」と「死」を併せ持つ存在であり「生」の裏側にある「死」の現実をあるがままに受けとめることが、より輝きのある「生」へと近づくことである。そしてまた、生きることとは自己と他者とをどれだけ肯定的に捉えることが出来るのかということである。医療は、人間と人間との間に成り立つものである。緩和医療は患者と家族にとって出来る限り良好なQOL(生命の質)の実現を目指している。だからこそ、ただひたすらに「生」を延ばし「死」を避けることに価値を見出すのではなく、「生」の質やその人らしさに目を向け多様な価値観でアプローチしていかなければならないのであるということを改めて考えさせられた。「看護倫理」の講義の中で、全人的に人を捉えるというのは看護の大事な価値であり、基本的人権を守るという法的な側面を考えた場合、あくまでも看護婦は患者側に立つという姿勢を示さなければ、患者側からは何も期待されないことになり、またそういう姿勢を示さなければアドボケイト出来ないことになるということを学んだ。私達は、何をしなければならないのかということを常に心に問いかけながら、その人にとっての人生の意味や価値を見出せるような側面からのケアを目指さなければならない。
 ホスピス病棟の実習においては、キリスト教という基本理念のもとに医療に携わる人々の姿があり、祈りや希望、強い信仰心や愛を実感した。その病棟に入院されている個々の患者の信仰も様々であるが、柔軟に対応されており尊重されている。幼少の頃からクリスチャンである49才の女性患者は、夫と高校生の二人の息子を自宅に残し入院となり、自宅から少し離れているため、家族がなかなか面会に来られないということであった。しかしその患者は“このホスピスに来ることができ、祈りを捧げることで、自分自身のなかでもとても気持ちが落ち着いた”と、話された。そして精神科医師であった64才の男性患者は、特に信仰はなく日々状態が悪化する傾向であったが、常に妻が付き添われていた。私が妻と共に、屋上まで車椅子の散歩に付き添ったとき、その眼前にはパノラマ上に山々の紅葉が広がり、その雄大な景色に私自身が圧倒されていた。彼は妻と共にその雄大な自然を楽しみ、風を肌に感じながら“もう死ぬからかな”と、自分の死が近づいていることを悟られていると思われる言動があった。その中で日本人の根底に流れているものとは何なのかを、考えてみた。
 日本人の死生観をあらわす代表的な文学作品のひとつに、鴨長明(1155〜1216)の「方丈記」がある。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」冒頭の一節はよく知られている。さらに無神論者である私の父の口癖の、“自分が死んだら近くの川に遺灰を流してくれ、死んだら全てNothing!”というその言葉の意味することとは何なのか。中川は、「日本人は、自然との調和を宗教的な次元で感じるところがある。一時も同じ姿を現さず常にうつろいゆく自然、花鳥風月に溶け込むことにより、自然、宇宙と一体化し、魂の浄化を得る。これは、一神教的世界観からは原始的、呪術的、非宗教的と見えるが、進化の結果としての人生と自然を楽しみ、最期には塵に戻ってその再生産に参加するところの宇宙に思いを寄せるのは、あながち野蛮ではない。事実、灰になって土(自然)に帰ることで自己の存在を意味あるものにしたいと考える日本人は多いようである。」5)と述べている。渡邊は、「日本人のなかには、古くから神ないし神々の観念が存在した。すなわち、鳥獣木草や海山、人や天地のすべてのもののなかに、目には見えないながら、尋常ならざる力をもって人間の吉兆を左右する神ないし神々があると信ぜられてきた。そうしたところから、畏怖をもってそれらの御霊が、社において祀られてきた。また広く人々の間にも、さまざまな習俗慣習とも結びついて、自然の諸力や聖霊に対する神仏および道教・儒教の混淆した民族宗教が、民間信仰の形で生きてきた。」6)と述べている。これらのことから、父もまた典型的な日本人であることが理解できた。そして自然を感じられるような環境が、いかに大切であるかを再認識すると共に、そのことが日本人の自然への回帰に呼応するものであるということを認識した。「万葉集」の歌人は、「世の中を常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば」と歌い、「古今集」の歌人は、「うつせみの世にも似たるか花ざくら咲くと見しまにかつ散りにけり」と詠んだ。日本人の心情のなかに、こうした無常観が存在することは、多くの文学作品がそのことを歌い、語り継いできていることからも明らかである。
 
おわりに
 
 生と死を考える視角には、さまざまなものがある。生と死は表裏一体をなしており、死を考えることによって初めて生も考え抜かれる。末期患者は喪失体験を繰り返し、自信や価値を失い、人生や自己の存在の意味に悩み苦悩する。このような根源的な苦悩に対して関わる場合にも大切なことは、自己をしっかりと見つめておかなければ他者への適切な働きかけや援助は出来ないということである。日本人だからといって誰もが同じような死生観を持っているわけではないが、その根底に流れているものも理解し尊重していく必要があると考える。かけがえのない一人ひとりの人間を尊重し、多様な価値観を捉えることが大切であり、そしてそこには常に自分自身の死生観や人生観が問われてくる。
 生と死を哲学するということは、今後も自己への課題として模索し続けていきたい。
 今回の研修を通して、さまざまな魅力的な方々との出会いに感謝致します。
 
<引用参考文献>
1) 恒藤暁:最新緩和医療学、最新医学社、1999
2) 藤腹明子:仏教と看護 ウパスターナ 傍らに立つ、三輪書店、2000
3) 渡邊二郎:人生の哲学、放送大学教育振興会、1998
4) ターミナルケア編集委員会:終末の刻を支える 文学にみる日本人の死生観、ターミナルケアVol.10 6月増刊号、三輪書店、2000
5) 青木幸昌 中川恵一:緩和医療のすすめ がんと共に生きる、最新医学社、1998
6) 渡邊二郎:現代人のための哲学、放送大学教育振興会、2000
7) 山形謙二:人間らしく死ぬということ ホスピス医療の現場から、海竜社、1996
8) 細谷昌志 藤田正勝:新しい教養のすすめ宗教学、昭和堂、1999
9) 森岡正博:宗教なき時代を生きるために、法蔵館、1996
10) ターミナルケア編集委員会:症例から学ぶ緩和ケア がんの症状マネジメントの実際、ターミナルケアVol.9 6月増刊号、三輪書店、1999
11) ターミナルケア編集委員会:わかるできるがんの症状マネジメントII、ターミナルケアVol.11 10月増刊号、三輪書店、2001








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