緩和をめざす看護
関西医大付属医科大学男山病院 新城 孝
はじめに
看護職は患者にもっとも密接に関わっている職種であり、患者の状況をきめ細かく把握できる立場から、多職種に情報提供を行っていく重要な役割がある。更に、患者と継続的に関わり、また、患者を擁護する立場から、医療チームの中心となって調整を行っていく役割も担っている。
看護婦として12年間、急性期から慢性期、そして終末期とあらゆる患者のケアを行ってきた。医療において看護職の果たすべき役割は大きく、患者家族のそれに期待するところも同様である。しかし、それに答えられるだけの看護が出来ているのだろうか、自分の行っている看護はこれでいいのだろうか、と疑問を感じ、自問自答する日々が続いた。それは、特に終末期の患者、家族を看る時に強く、常に“後味の悪い看護”を感じていた。緩和ケアの大切さ、必要性を感じながらそれが十分行えないことへのジレンマは大きく、しかしその知識の不十分さもまた同じだけ感じていた。
今回、緩和ケアナース養成研修に臨むことで、緩和ケアに関する知識、技術の習得と、これまでの自分の看護の振り返りをすること、また、今後の看護の方向性を見出し、質の向上を図ることを目標にあげた。
痛みからの開放
わが国の死亡原因の第1位はがんであり、毎年多くの方が亡くなられている。発病から死に至るまであらゆる症状にがん患者は悩まされ、その人の生活を脅かされる。その中でも痛みの占める割合は大きい。がんは必ず痛みを伴うわけではないが、進行に伴いその頻度は高くなり、程度も強くなる。痛みは常に主観的なものであり、他人からは見えず、人によって異なり、比較することは出来ない。痛みの治療が注目を浴びるようになった現在でも、痛みを過小評価したり、「精神的なもの」としてしまうことが多く見られる。痛みの治療にあたってもっとも大切なことは患者が「痛い」と言ったら、まずその言葉を信じることから始めることである。痛みが激しいときには鎮痛剤を使って疼痛を緩和しなければ、人生最期の時を生きる力を痛みに耐えることで使い果たし、無力感が生まれ、人間らしい生き方が困難になる。
がん患者は病気のプロセスにおいて少なからず死の恐怖を感じ、自己の存在を脅かされるために不安、喪失感、怒りなど様々な感情を体験する。したがって、がん患者においては、特に痛みを身体的因子だけでなく、心理的、社会的、霊的な因子も含め、その人の生き様やおかれている環境なども視野に入れ、全人的、包括的にとらえることが不可欠である。疼痛コントロールの原則は
1. 積極的に疼痛コントロールを試みること。患者が訴えるまで待たないこと。よく尋ね観察すること。
2. 痛みの原因を正確に診断すること。
3. 定期的に、適切な鎮痛剤を、適切な量とルートで投与すること。
4. 疼痛コントロールの状態について繰り返し定期的に評価すること。
5. 共感、理解など精神的ケアの重要性を決して忘れないこと。薬剤は患者の全人的ケアの一部に過ぎない。
痛みにより日常生活に不自由を感じていることを緩和することが、痛みの治療の目標になる。痛みの治療は、患者の生活の幅が広がるようにコントロールすることであり、痛みが取れても、患者がベットから離れられないような対応方法では患者のQOLの向上は図れない。看護職は、入院中の患者については24時間継続して観察しており、患者の痛みの経時的変化や痛みに影響する要因についての情報を最も把握しやすい立場にある。睡眠、排泄行動、体動、食事摂取など日常の動作に関連した痛みの情報を適切に収集、他職種にその提供をすることで痛みのマネジメントがより効果的に、円滑に行われるようになり、患者は不必要に痛みに苦しまずにすむと思われる。
患者は、「痛みが出ること=病状が進行し、予後が限られてきている」「痛み止め特にモルヒネを使うことは体に悪い」等と思って我慢している人も多い。患者だけではなく、家族が同様の反応を示すこともあり、こういう認識を患者、家族が持っているということを知っていることも必要である。抵抗感を持つ要因のひとつとしてはモルヒネに対する誤解や懸念があげられるが、その他にもモルヒネの使用が病気の進行を予期させるなど死に対する恐れやその人の病気の受け止め方、対処の仕方が関連していることもある。したがって、看護職は知識不足という観点からのみではなく広い視野でとらえ、患者、家族の抵抗感の本質を見極め、根本的な要因に対するケアを行うことが重要である。あらゆる症状のマネジメントをする上で大切なことは、看護婦が主でするのではなく、患者自身が中心となってするということである。患者の認識は、“患者自身が主体的に痛みのコントロールができるようになる”ということを、患者に教育していく上で非常に重要なことであり、この“自分に必要な行動とするべき行動を判断するセルフケア能力”を高めていくことも看護婦の大切な役割である。
WHO(世界保健機関)は、医師に関して「がん患者には痛みの治療のための十分量の鎮痛薬を要求する権利があり、それを投与する義務がある」と、また看護婦に関しては「いつも患者のそばにいるので、痛みをはじめとする諸症状のコントロールの評価(アセスメント)や監視を行うのに理想的な立場にいる。諸症状のコントロールが最大限に発揮されるために、看護婦が患者の必要に応じた与薬量の調節を医師の指示する範囲内で行える権限を持っていなければおかしい」としている。WHO方式のがん疼痛治療法が世界中で広まりがん患者の痛みの90%以上を解決に導いてきている現在でも、医療者側の知識不足や、誤った認識でこの治療法が実施されず、または不十分で痛みに苦しみつづけている患者がまだ多い。そういった患者を日々目にするのは看護者としてもつらいことである。人間らしく生きるための治療には常に積極的に関わる必要がある。しかし、中には薬では取り除くことが出来ない痛みもある。様々な心理、社会面での苦悩、霊的苦悩をがん患者は抱えている。全人的、包括的なケアを効果的に提供するためには限られた職種あるいは専門家だけでは困難と考えられ、心理療法士や精神科医、ソーシャルワーカー、宗教家など各領域の専門家が協働し、多職種を含んだ医療チームでケアを提供していくことが求められる。しかし、現実には専門家が常に患者のそばにいることは不可能であるし、また一般病院ではそれら専門家がいないことのほうが多い。したがって、その役割が看護婦にゆだねられているのが現実であり、求められる能力は自然と高いものになっていく。ヘンダーソンは、看護婦が患者を理解する上での両者の関係を「患者の立場に自らを置こうと努力するとき、看護婦は人間行動の底に潜む一般原則についての極めて広く深い知識および種々の文化と生活様式を持つ人々について特殊な知識を活用することが必要である」1)と述べている。看護婦は、自分の中に患者のニードを率直に受け止める感情を、一面で否定する感情がある。「痛いといっているが痛そうな顔をしていない」「これくらいで痛いはずがない」と患者の訴えを否定してしまうことである。「痛い」と訴えたことをまずは信じること。しかしそれをそのままうのみにせず、「本当に痛いのだろうか」「痛いということを通して別のことを訴えたいのではないだろうか」と疑ってみることも大切でありもう一歩進めてその理由を明らかにすることにより、痛みを和らげる援助活動が発展するのである。そして何より大切なのは患者がなんとなく話してみたい、打ち明けてみたいと言う気持ちを抱くような看護婦の人間性、患者の人権を尊重するという基本的な姿勢を持つということである。様々な看護技術を用いて安楽な姿勢の工夫や苦痛の軽減に努めながら、小さなよい変化を見逃さずに共に喜びあったり、不安を吐き出してもらえるようにかかわりを深めていくことが大切である。
その人の生きる力を支える
人間にとって、死は避けられないことである。しかし、一般社会でも、また医療者側からも死の問題はタブー視され、人間としてどのように死を迎えるかという選択が自分自身では出来ない状況がある。死を考えるとき、そこには必ず生がある。その人らしく死ぬということは、どれだけその人らしく生きるかということである。
死が目前に迫ってくること、経験がないものには計り知れない程の恐怖、不安、否認などの感情を持ち合わせるていることだろう。そしてそれは一定のところにおさまるものではなく、常に変化しているもので、その時その時のその人の気持ちにできるだけ寄り添っていくことが大切である。そこで、その人の表情や態度を手がかりに、見て取ったわずかな変化の意味をその人の立場から考える努力や、その人の意志が表出できるような刺激を見つけ出す努力が必要である。
看護婦の存在自体が患者に緩和的に働くことがある。一緒に悩み、考え、患者の立場を擁護すること。患者のニードや望みに注意を向け、患者自身がよりよい方向を選択できるように支えること、患者の希望をはぐくむ場を作ることが大切である。人は他者によって理解されることでパワーを獲得することが出来る。まずは、スタッフが腰を据えて患者をそのままの姿で受け止め、理解しようとする姿勢が必要である。その患者の個性を尊重し、その考え方、生き方、価値観、人生そのものを肯定的に評価する必要がある。そうすることでその人の心の杖となり、生きる希望、力を支えることになる。河口正吉氏が訳出した Kubler-Ross,E.著、「死ぬ瞬間」のあとがきには、次のように述べられている。
「患者はコミュニケーションに飢えている。そうした患者とコミュニケートするためには、まずわれわれが自らの死の恐怖を去らなければならない。そのような人がそばに座ってくれているだけで、患者は無限の安らぎを覚え、平和と威厳のうちに死ぬことが出来る。ここにおいて我々は、我々自身の死の恐怖の克服、確固とした死生観の把持が、単純に自分のためだけではなくて、むしろ死にゆく肉親と隣人のためであり、ひるがえって自分自らの充電された生のためであることを知るのである」2)
他人を理解し援助することは難しいことである。ましてや、自分が経験したことのない厳しい状況にある人を理解し援助することはほとんど不可能に近いのではないだろうか。ここに終末期がん患者とその家族にかかわる看護婦の苦悩がある。看護婦も弱さと限界のある普通の人間である。性格、考え方も違えば価値観も違う。このような人間が他人を理解し援助するためには、まず自らの心が温められ、豊かである必要がある。そして、自分ひとりではなくチームでかかわりを持ち、意見を交わすことでよりよい看護へとつながっていくものと思われる。
家族や友人とのよい別れを整える
一人の人の死はその人、家族にとってはじめての死であり、医療の多数の死の中のひとつでは決してない。個体レベルの死はかけがいのないその人の死であり、その人にとっては人生の終わりである。しかし一人の人間の人生には、たくさんの人々とのつながりが組み込まれているので、その人の死は単にその人だけの問題にとどまらず、多かれ少なかれ周囲に様々な波紋を引き起こす。そして、その人の死後も周囲の人々の心の中に思い出や一人の生き方として残されたり、受け継がれていったりする。その為、この終末期の期間にどれだけ納得のいく看護が出来たかによって家族の心理状態は大きく変化する。しかし、死が避けられない患者を看る家族は、心身ともに疲労が大きくなる。したがって、休息が取れるように生活環境を整えたり、ただ付き添うだけでなく、状況に応じて直接ケアに参加できるように配慮する必要がある。肉親を失うことは家族にとって厳しい試練であり、この対象喪失による悲嘆の過程を克服していけるように援助することも看護者の役割である。身内や友人との関係も途絶えがちになると患者には孤独を、残された人には後悔を残すことになる。人生最期の時に身近な人々とよいつながりを保つ工夫も看護婦に期待される大きな役割であり、よい別れができるような配慮を心がけなければならない。
おわりに
6週間という研修期間は終ってみればとても短く感じた。このように集中して講義を受けたり、本を読んだりした事は長い期間なかった。疑問やジレンマをもちながらも、それを解決しようとすることなく、日々業務に追われていたように思う。今回しばらくの間職場を離れることで、自分の看護を振り返り、見つめなおす良い機会となった。講義を受けながら反省させられる点は多く、これまでの患者、家族へのかかわりの不十分さや、緩和ケアヘの自分の姿勢の甘さを痛感させられた。と同時に、現在行われている緩和治療への取り組みを知り、まだまだそれが取り入れられていない当院の現状を目の当たりにした。
現在、ホスピス・緩和ケア病棟といわれる施設は90を超え、更に開設を控えているところも複数ある。しかし、それでも必要としている患者の数には到底足らず、一般病棟で最期を迎える人のほうがはるかに多い。どちらにしても緩和ケアを必要としていることに変わりはなく、環境の違いによってケアに違いがあってはならないし、その質が問われる時代にもなっている。環境が整っていない一般病棟ではそれを埋めるだけの更なる努力も必要であるが、緩和ケアを行うものにとって向かう方向は同じである。看護婦のケアに対する満足度の評価は低いといわれているが、今後“後味の悪さ”を感じることなく、これまでの経験を次に生かし向上していけるよう心がけていきたい。
引用文献
1) 川島みどり:ともに考える看護論、医学書院、2000. p52
2) E・キューブラーロス、川口正吉訳:死ぬ瞬間、読売新聞社
参考文献
1) 武田文和他:学生のための緩和ケア講義、南山堂、1998
2) 小原信:ホスピス―いのちの癒しの倫理学、ちくま新書、1999
3) 岡田美賀子:チーム医療における看護婦の役割(がん患者と対症療法別冊)、メディカルレビュー社、1999
4) 武田文和他:季刊今日の緩和医療Vol.2No.1特集からだの痛み、塩野義製薬、2000
5) 森田雅之他:月間ナースコール別冊、鎮痛剤によるがん疾痛治療法、株式会社テクノコミュニケーションズ、2001