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一般病棟の緩和ケアを日指して
 昭和大学病院 米本 清美
 
はじめに
 
 私は以前から終末期看護に興味を持ち、いずれホスピスで働きたいと思っていた。患者と共に、喜こんだり、悲しんだり、人として関わり、暖かいケアが提供できる場所であり、看護婦としての質は問われるが、やりがいのもてる場所ではないかと思ったからだ。
 特定機能病院で積極的治療を主体としている私の病院では、医療従事者の終末期医療に対する認識も弱く、患者さんも「お任せ医療」から抜け出せない状態である。現に病棟でも、苦痛に満ちた壮絶な死を迎える患者が多く、その度にもっと何か出来たのではないか、また何も出来なかったという無力感に陥る。これらの事から私がしたいと思う看護をするには、専門的な知識や考え方を身に付ける必要があると思い、この研修に参加をした。
 この研修では多くの学びを得る事と、自己を振り返る良い機会にもなったため、ここに報告する。
 
緩和ケア
 
 緩和ケアとは「治癒不可能な疾患の終末期にある患者、家族の生活の質、生命の質(以下QOLと略)の為に様々な専門家が協力して作ったチームによって行われるケアを意味し、そのケアは患者と家族が可能な限り人間らしく快適な生活が送れるように提供される」1)と定義されている。今まで私はQOLを考えたケアをしていただろうか?と振り返ると言葉だけが一人歩きし、何をどう関わって良いのか分かっていなかった。QOLとは「個人の身体、精神状態および生活状況について、表現あるいは体験される主観的な満足を言う」2)と述べている。この事から、終末期の患者、家族のQOLを考えた時、Cure(治す)からCare(癒し、治る)への考え方、つまり積極的治療から緩和ケアヘの移行であるギアチェンジが必要であると考える。ギアチェンジにおいては、治癒を目的にして今まで頑張ってきた患者、家族にとって「突然の死の宣告」という思いや、医師から見放されたという感覚に陥り、心理的葛藤は大きい事が考えられる。ギアチェンジを行うには、医療者が緩和ケアに対し、患者、家族の理解が得られ、心理的葛藤を克服していけるような症状緩和に努める事、積極的にコミュニケーションを図り、時には見守る姿勢での慎重な関わりが重要となってくる。また、24時間患者、家族の側にいる私たちには、基本的な看護技術に加え、終末期患者の全人的痛みを理解した行動が出来る事、しっかりとした人生観、死生観を持つ事が大切となってくる。
 講義では、「がんになって一番に手放すものはなに?」の問いに私は答えられなかった。終末期の患者は死を目前にし、失う事の連続であり、諦めることを余儀なくされている。私は患者のこの気持ちに気付く事ができず、また身体症状の緩和においても中途半端であったと反省した。
 終末期における看護婦の役割で一番大切なのは、その人らしさを尊重した適切な看護だと考える。終末期の患者は痛みを始めとする様々な症状に悩み、上手くコントロールできなければその人らしく生きる事も困難になってしまう。その為に、看護婦は痛みを訴えた場合、どんな些細な痛みにおいても過小評価せず、共感と傾聴の姿勢が大切であり、患者のセルフケア能力をアセスメントし、症状をマネージメントしていく能力が求められる。そしてある程度、症状が緩和されると、次に患者はスピリチュアルペインに悩み、看護婦としての介入がとても重要になってくるのではないかと思う。
 痛いとき人は辛く、苦しく何とかしてほしい、もうこのまま死んでもいいと思うかもしれない、もしくは、良く耐えた、頑張ったと言う人もいるかもしれない、だから私はどんな痛みにおいても苦しまないようにコントロールしてあげたいと思っていた。しかし、講義を聴いて、身体面だけではない苦痛、特にスピリチュアルな面での苦痛が患者の生きる希望までも無くし、一番大事で難しいケアである事が理解できた。私は患者と本当の意味での関わりを避けていた。患者、家族と話したいのに話せない、それは私に人生観、死生観というものがなかったからで、患者とも色々な話を語り合う事が出来なかったのではないかと思う。
 講義や実習を通し、今後は話を聴くぞと意気込むのではなく、普段の会話や日常生活の援助のなかで患者、家族との信頼関係を確立し、共感と傾聴の姿勢を忘れずに関わっていこうと思う。そして、相手が大切である事を自分も大切に思う事が大事であることを学んだ。
 私は、人は全人的苦痛から癒されたとき、希望が生まれ、最期に自分の人生、楽しかったと思えるのではないかと思う。忘れていた患者、家族にとって出来る限り可能なQOLの実現をめざし今後ケアに活かし関わっていこうと思う。
 
死生観を考える
 
 死生観とは、「死ぬ事、生きる事の考え方」であり、生きるということは、死への準備であり「どう死ぬかは死ぬまでをどう生きるか」ということである。
 終未期看護に携わる私たちは、死を目前にしている患者から逃げず、勇気をもって残り少ない日々を生き抜けるよう支援していく役割がある。しかし、私には「死」というものが漠然としている為どのように考えていいのか、理解できず、私自身の生き方も「死」を非現実的なものとして捉え一日、一日を無駄に過ごしていたように思う。講義では、「あと2ヶ月のいのちといわれたら」という場面を、大切な友達や本人になって考えた。両者で共通したのは、大切な人と暮らし、自分勝手に自分のためだけに時間が動いて欲しい、そして大切な人だから、心配かけたくないと思ったり、逆に何か力になってあげたいと考えていた。今置かれている環境や、立場の違いはあるかもしれないけれど、患者も当たり前の生活を望み、変わらぬ人生を過ごしたいのではないかと考える事ができた。
 以前、元看護婦N氏は、肺がん末期の患者として入院してこられた。痛みをコントロールしながら今の生活を守り、食事も入浴も最期まで頑張っていた。末期になると倦怠感が強くなるため、何かをしようとする気力もなくなってしまう。看護婦は、その姿を見て「可哀想だからそっとしておいて上げよう」と思いがちだが、私はN氏の姿を見て、これが人間として本当の姿だし、死への準備をする為の生き方ではないかと考えられた。N氏の最期とこの講義で私は、死を目前にした患者は、失う事の連続にもかかわらず、今までの生活さえも、入院する事で中断しなければならない状況になる、その大切な時間を入院する事で奪ってはいけないのではないかと考えることができた。
 私は、入院生活において、単調な生活を余儀なくされ、最期の時間を過ごした患者に申し訳ないと思う反面、自己の人生観、死生観について改めて考えるきっかけとなった、この研修での学びを現場でも忘れず、自分は今日までどう生き、どう死のうと思っているのか常に考え患者と接していこうと思う。
 
生命倫理
 
 私たちには病気の人を完全な姿に治すことは出来ない、だが治療する事で残された人生を自分らしく精一杯生きることはできる。そして終末期の人もまた残された時間を生き抜く事で、最も大切ないのちを加えることが出来る。看取りのない闘病や延命はデジタル的延命であり、医学は人の「死」そのものについては無力であり「死に至る病とは絶望であり、キルケゴールは死んだのと同じだ」と述べている。3)私は肉体の死だけが死ぬと言う事だと考えていた。しかし絶望を感じたとき、人は生きる意味を見失う、それは心が死んでいる事であり、逆に希望は質的ないのちを与えられるのではないかと考えられる。いのちにはたくさんの意味があり、何気ない会話や励まし、笑顔全てにおいて、ひとに希望を与えている。そして相手から希望をもらうことで、人は生き、そしてそれぞれの死が「有終の死」を迎えられることを学んだ。
 終末期の患者が、余命行くばくも無いと分かった時、残された時間に「いのち」を与え、その生を生き抜く場所がホスピスである。
 ホスピスでは心のケアをし、痛みをわかちあい、全体としての癒しを目指す所である。肉体のケアはできるが心のケアも大切であり、もう何もしてあげられない時でも、まだこれだけの事はできる、つまり、このような態勢で患者、家族を支えている事が分かった。
 一般病棟では、最先端の医療ばかりではなく、痛みで苦しんでいる人もいる。どうしても、患者の訴える主観的な言動だけにとらわれた、偏った看護をする傾向にある。人間は人間だから死ぬ。人間とはいつか死ぬように造られている。ならば私は生きがいのある生を生き、死にがいのある死を迎えたい、そして、このような気持ちで死にゆく人をたすける助死者になりたいと思う。
 死にがいは、生きがいを感じて初めて生まれる、家族もまた死なれがいが生まれ、信頼できるスタッフがいて、心ゆくまで看取ってあげる事が、死にがいと死なれがいのある死となり、穏やかで落ち着いた最期を遂げることが出来るのではないかと思う。この講義では、いのちの重みや「死にがいのある死=Quality of Death」という言葉を初めて聴いたが、身体面だけではない心のケアや希望をもつことの大切さ等、忘れかけていたもっとも大切なものを学ぶ事ができた。
 
チームアプローチ
 
 緩和ケアにおけるチームアプローチとは、患者、家族のQOLの向上の為、ケアの目標や情報を共有しながら多職種が独自の機能を発揮し、全人的にアプローチしていく事である。そして看護婦の役割として、患者の苦痛を緩和し、日常生活の援助や症状コントロールをアセスメントしていく事、そして、患者、家族のニーズを把握し、ケアできるように多職種との連携を図ることである。しかし、コミュニケーションの仕方によって、医療者間の価値観の相異に苛立ち、誤解を生じてしまうことが多い。
 講義では、コミュニケーションスタイルを学んだが、私は自分の思いが強い為、時に支配的スタイルで攻撃していたように思う。お互い価値観も違うため、自分の考えだけを尊重するのではなく、相手の考えを聞くゆとりを持つことが大切である。また、患者、家族の言葉や行動として表現されるものは、自己の価値観に当てはめるのではなく、それが何を意味するのかを考えられた時、それが結果として、良い方向へと進めるのではないかと気づく事ができた。チームとして考えたとき、大学病院では多職種それぞれの力はあるのに目標とする所が各領域だけの問題で終わってしまい、全員のチームがこの患者、家族の問題を情報交換する機会が少ない。
 今後は、患者、家族のQOL向上の為緩和ケアチームという組織の協力のもと、チームアプローチを実践していきたいと思う。
 
おわりに
 
 緩和ケアはチーム全体が、一つの共通理解のもとに患者、家族の全人的なケアを目指しているため、急性期、慢性期が混在する一般病棟では難しいと考えていた。しかし講義が進むにつれ環境や病院の規制はあるが、終末期にある患者、家族のQOLの向上の為に人間として関わって行く事に違いはないという医療者の考えや姿勢が大事である事が考えられた。緩和ケアでは全員が「その人らしい生活が出来るように」と同じ目標に向かっているのに、私の病棟では、そこまでの共通理解が看護婦間でも得られていない。急性期から終末期まで幅は広いが、まず今できる事から、始めてみようと思う。
 今までの6年間を振り返ると患者、家族についてのQOLを深く考えることができず、こんなに辛いことばかりなのに、患者、家族の気持ちを考えた行動ではなく、医師の指示に従ってばかりいた。また、もう少し積極的に踏み込んだ看護を提供していれば苦痛に満ちた最期は防げたのではないかと思う。まず看護婦の価値観で行動するのではなく常に患者、家族の気持ちを考えた積極的アブローチを目標とする、また私自身が見本となり、スタッフが緩和ケアの考え方や、チームアプローチの重要性を理解した行動がとれるようにカンファレンス等を通して働きかけていきたいと思う。また、いのちの大切さを実感し、人性において大切な一幕に立ち会える事を喜びとし、この思いを忘れず、一般病棟での緩和ケアを目指して行こうと思う。
 
引用.参考文献
1) 全国ホスピス、緩和ケア病棟連絡協議会基準
2) がん看護Vol.1 No.1 三輪書店
3) 小原信:ホスピス いのちと癒しの倫理学 ちくま書房








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