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「生」と「死」に関わる看護婦として
 光ケ丘スペルマン病院ホスピス 赤井 聖子
 
◇はじめに
 
 6週間に及ぶ「緩和ケアナース養成研修」の参加は、自分自身を振返るという事が目的であった。ホスピス開設の準備から関わり、開設後4年を迎え自分の看護の質や死生観、更に価値観などを見直し原点に帰る必要が有るのではないかと考えていた。研修を終え、講義や実習のなかで自分を振返る事が出来、その結果更に緩和ケアナースとして成長できたと思われるので此処に報告する。
 
◇命の尊厳
 
 命の尊厳というテーマは漠然としており、自分でもどのようにまとめれば良いのか迷いながら取り掛かってしまった。なぜなら、命の尊厳を考えずに緩和ケアを語る事は出来ないと思うからである。人は誰でも(孤独を好む人であっても)、無視されて生きる事は辛いに違いない。マザー・テレサは路上で虫の息になっている人に対し「あなたの存在が私にはかけがえの無い事なのです」と声をかけ安らかで人間らしい最期を看取っていた。それでは、人間らしい「死」とはどのような「死」なのか。「人は生きて来たように死んでいく」とよく言われる。極端な言い方をすれば、一所懸命に生き、誰からも愛されるように年を重ねて来た人は必ず良い死に方が出来るのであろうか。疎まれながら怠惰な生き方をした人は悲しい死に方しか出来ないのであろうか。いや、私はそう思わないし、そうであってはいけないとも思う。人は皆、様々な生き方をしている。看護婦である私にとって誰がどのように生きて来たのかということよりも、今私の目の前に居るその人の存在が大切なのである。特にターミナル期にいる方は、様々な苦痛を背負いながら他人が想像する以上に自分の人生を振返っているのではないかと思うからである。「死」を前にして苦しんでいる人に必要な事は、「今」の苦痛を緩和する事でありその後に来る「死」への道のりを、どれだけ平安に歩んで頂けるのかという事ではないか。生き方もそれぞれであるように死に方もそれぞれであるが、ケアによって安らかな「生と死」を提供出来るのであれば、より質の高いケアを学ぶ事が大切である。
 「緩和ケアナース養成研修」は、医学的・倫理的に学び知識・技術を習得するだけでなく、看護者として最も重要な自分の死生観を考える事が出来、「命の尊厳」を理解する事が出来る場であった。末永和之先生は「その人の人生を全て受け入れる事が大切な事」と言われ、実習病院の安保博文先生は「その人が普通に過ごせるように」と口癖のように言っておられた。確かにターミナル期において、残された時間をその人が望むように過ごす事が大切であり、それを支えるにはその人の人生を全て受け入れなければ困難であろう。更に末永先生は、「死を三人称に考えてはならない。せめて肉親の死と同様に感じて欲しい」とも言われた。その気持ちこそが緩和ケアの原点ではないかと思う。自分にとって大切な人だから安らかに旅立って欲しいのである。
 では、患者と看護婦の年齢や人生その他価値観などの違いが障害とならずにその人の人生を受け入れるにはどうすれば良いのであろう。それには看護婦自身が確かな死生観を確立させておくことが重要である。私自身はカトリック信者として、常に生きる事の意味や死について考えている。しかし、研修の中で改めて考えてみると「生きている自分」の存在がこれほど大きかったのかと驚いた。と同時に「生きる」という事の重さを感じた。「生きる」事は時によって大変苦しいものである。それなのに生きていられるのは、自分が一人ではないと信じているからであり、自分が誰かにとってかけがえのない存在である事が分かっているからではないのだろうか。人はたとえ独居であっても一人で生きている訳ではない。色々な形の中で支え合って生きている。ここで私は、十月三十日の「死生観を考えてみる」という研修の後で書いた学習カードを引用したいと思う。その日に感じた素直な気持ちを述べているからである。<人は何故生れてきたのか、何故生きて行かなければならないのか、何故死ななくてはならないのか。(中略)しかし、別れはどのような形であっても悲しい。まして、もう逢う事の叶わない死別であればなお更である。逝く人も遺される人も悲嘆は大きい。人は生きてきたように死んでいく。その形は様々である。しかし、「死」を恐れる気持ちには大差がないようだ。何故なら、「死」は未知の事であり、「無」になると思っているからではないか。忘れられてしまうと思っているからではないか。「死」を前に苦悩している人に、私には未経験の事だから理解出来ないという表情をしたり、顔だけは分かった風を装っても余計苦痛を与えてしまう事になる。本日の研修では、疑似体験とは言え、苦しいほどに己の「死」と向かい合う事が出来た。「死」とは単に個人の消滅ではないし、個人レベルの悲嘆だけではない。一人の「死」はその人を取り巻く幾多の人に影響を与える。「死」を前にした人の苦悩の中に、「感謝の気持ちを伝える事が出来ない」という事も大きく存在する。自分の「生」を考えれば必ず誰かへの感謝の気持ちがある。私達は、死に逝く人が「ありがとう」と感謝の言葉を伝えられるような安らいだ気持ちになれるように苦痛の緩和をはかり、環境も設定しなければならない。私達が「死」を真正面から感じる事が出来れば、「生きる事の意味」も理解出来るし、それは患者の苦悩を共感する事につながる。残された命をどのように支える事が出来るか。私達の役割は大きい。>以上である。死生観の確立とは人の「命」の大切さを理解する事でもある。私はこの研修で自分の大切なものを知り、それを失う時の悲しみを知った。病気を罹った人、特にがん等で自分自身の身体の一部や機能を一つ一つ失っていく事がどれほど辛いものか理解出来たように思う。加えて、その方々の多くは「命」さえ失ってしまうのである。最も大切な「命」をである。
 
◇緩和ケアナースとは
 
 WHOは緩和ケアを、治癒を目的にした治療に反応しなくなった患者に対する、積極的で全人的なケアであり、痛みや他の症状のコントロール、精神的・社会的・霊的な問題のケアを優先する。緩和ケアの目標は、患者と家族のQOLを高める事であると定義している。私達が関わる、緩和ケアを必要としている患者家族は生きるために病気と闘ってきた方々であり心身共に疲れきっているが、生きることを諦めているわけではない。その点を理解しておかなければ、全人的なケアを提供する事は出来ない。
 緩和ケアの基本日標は、[1]疾病の末期におこる疫痛、症状の緩和[2]患者の意志を尊重した日常生活の援助[3]患者家族のケア[4]遺族のケア[5]チームアプローチ[6]十分なコミュニケー・ションがあげられる。その目標達成の為に、症状マネジメント・患者家族の心理的特徴と援助・社会資源の活用などを学んだが、特にチームアプローチとコミュニケーションの重要性については殆どの先生方が強調されていたようだ。入院時もしくは外来時からの関わりの中で患者家族との信頼関係を築く為には十分なコミュニケーションが大切であり、チーム医療としてのアプローチが必要である。患者家族が内面の痛みを表出するには、まず患者の身体的苦痛が緩和されなければ難しい。症状コントロールが上手く行われるためには、看護婦としての観察力や技術・知識が必要であるがそれとともに「聴く」という態度が重要である。傾聴はコミュニケーションの第一歩であり緩和ケアの基本である。傾聴は寄り添うことであり相手の人間性を尊重することなので、患者家族は安心して苦痛を訴えることが出来る。また、病状がそれぞれ異なるように疼痛の種類も様々である。その人の疼痛の原因を明らかにし、原因に合った治療が出来る為にも、看護婦の患者家族に対する関わり方は重要になってくる。患者が主体であることを忘れず、その人の痛みを素直に聞き入れなければならない。ある程度身体的な痛みがコントロールされると、殆どの方は他の痛みに悩むようになる。精神的・社会的・霊的な痛みである。緩和ケアとはその様な痛みのケアも行われる場なので、ケアの提供者である私達看護婦が成長した大人でなければならない。私達の価値観・死生観が確立されてこそ、患者家族の人間性を尊重出来るのだと思う。十分な信頼関係が築かれる為には十分なコミュニケーションが必要でありその土台となるのが私達の人間性である。傲慢になっていないだろうか。目線を合わせているだろうか。優しさを伝えられたであろうか。常に自分自身を振返る事を忘れてはならない。
 コミュニケーションと同様に、全人的ケアに必要なのがチームアプローチである。患者家族は、背負っている多くの痛みと同じくらいのニーズを持っている。その多様なニーズに応える為には、専門的知識や技術を持つスタッフが必要とされ、それらが活かされるチームでなくてはならない。患者・家族・医師・看護婦・メディカルソーシャルワーカー・薬剤師・栄養士・理学療法士・カウンセラー・宗教家・ボランテイア・その他のコメディカル等など。しかし、単に異なった専門職が集まるだけではなく、チームの構成員が同じ目標に向かい必要な情報が共有されていなければ生きたチームとは言えない。チームアプローチの講義で、「成熟したチームが持っている機能」とはどのようなものかを学んだ。それは、[1]オープンで効果的なコミュニケーション[2]メンバーのチームヘの関与[3]明確な目標とその共有[4]専門性、主体性[5]相違を認め、相互尊重[6]調整とリーダーシップが活かされていなければならない。しかし、現実には難しい事が多いと思った。何故難しいのか。それは同じ目標に向かっているはずなのに、立場の違いから生じるものの見方や価値観の相違を批判している時があるからで、要するに信頼関係が希薄なのだと気付いたからだ。講義の始めに、「自己点検:気づき」という作業を行いそこで重要な問題点が分かった。信頼関係の希薄さの一因としては、自分からの歩み寄りが少なく、また自分の考えを素直に表出していなかったと思う。コミュニケーションの「場」は常に有るのに、それを活用していなかった。自分の考えを伝えなければ進展はない。「相手を変える事よりも、自分を変える事によってチームが良い方向に変わるかもしれない」という最も基本的な答えとそのプロセスが見えた事は大きな実りであった。そのためにも「チームの一人一人が大切な存在なのだ」という意識を大事にしなければならない。また、自分にとって気になる人、苦手な人は実は自分にとって大切な存在であるという気付きも出来た。考えが違う人の意見は自分が見えていない部分を示しているのである。患者家族と向き合う前に、自分と向き合いチームメンバーと向き合ってこそより良いチームヘと成長し、チームアプローチが成立する。緩和ケアの場において、看護婦の役割は大きい。患者家族と接している時間が長く、また信頼関係が強ければ強いほど多くのニーズが見えるからであり、ケアのコーディネーターとして専門のチームメンバーに依頼しなければならないこともある。時には別の立場に立って看護婦の役割を見てみると、自分の役割が見えるかもしれない。
 患者家族は、苦痛を緩和し「生きる場」としてホスピス・緩和ケアを望んで来る。「死」が間近に迫るまで「生きる希望」を持ち続けており、その気持ちを支えニーズが満たされるよう配慮すること、そして、安らかな「死」を迎えられるように看護婦自身も「死」を受け止め、その上で患者家族がその時その時をその人らしく過ごせるようにケアする事が重要だと思う。
 
◇終わりに
 
 6週間の「緩和ケアナース養成研修」は、講義・グルーブワークそして9日間の実習を通して、ホスピス・緩和ケア病棟における終末期患者と家族のために、緩和ケアの質の向上を図るためのケアの基礎を学び、緩和ケア病棟における看護を実践できる能力を育成するためのコースであった。そして私自身の参加目的は、自分自身を振返る事であった。良い意味で仕事に慣れてはいるものの、初心を忘れかけているのではないかという不安が大きかった。自分では一所懸命のつもりでも、気付かぬ面は多いはずである。欠点はなかなか諭してもらえるものではない。自分を振返り原点に帰るには、別の場所から見つめる必要があると思った。第一に、「命の尊さ」を再確認できた。自分の死生観を見つめる事によって患者家族が抱える苦しみが如何に大きいものであるのかを知り、「生」と「死」が患者家族だけのものではなく、看護婦として関わる私にとっても重要な意味を持つ事を感じた。自分自身が人間としてしっかりと生きていなければ、患者家族の大切な「命」に触れることはできない。自己認識できてこそ、がんの終末期にいる患者家族の心理を理解するために歩み寄れるのだと思う。信頼関係が築かれるためにも自己の確立は必要であるし、柔軟性のあるケアを提供するためには自分自身が柔軟な生き方をしていなければならない。
 緩和ケアナースとして必要な、腫瘍学・緩和医療・倫理そして症状マネジメント・サイコオンコロジー・チームアプローチ等を学んだが、それぞれの先生方からその生き方を学ばせて頂いた。
 緩和ケアという命を尊ぶ場において自分を常に振返る真撃な生き方はそのままケアに現れる。研修を終えてホスピスの現場に戻り、この学びが患者家族に活かされ、更にスタッフや後輩の指導に役立つことができるのではないかと思う。
 「緩和ケアナース養成研修」に参加できた事は大いに意義のあるものであった。
 
参考文献
1) アルフォンス・デーケン著;死への準備教育 死を看取る、メジカルフレンド社、1986
2) 菊地多嘉子著;看護のなかの出会い、日本看護協会出版会、1987
3) 真壁悟郎;看護しつつ生きるとは、なに、日本看護協会出版会、1986








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