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研修を終えて
「価個観の寄り添いを目指して」
 札幌鉄道病院 舩山 京子
 
はじめに
 
 私が勤務するのは一般病院であるが、終末期の患者と関わることも多い。しかし常に迷ったり悩んだりしながら関わる毎日であり、その解決方法が見つからず日々が過ぎていくのが現状である。そんな中今回この研修を受ける機会に恵まれ、参加するにあたっては緩和ケアにおける看護婦の役割や緩和ケアについての基礎的知識、考え方、コミュニケーションについての学習を深め、それらのことから一般病棟における緩和ケアについて考えたいと思い、それを目標として研修に参加した。今研修を振り返ってみると本当に多くの学びを得られ、有意義な時間を持つことができたと思う。具体的には、チームアプローチ、症状マネージメント、家族看護、コミュニケーション技術、死生観その他たくさんのことを学ぶことができ、その学びについて以下に述べる。
 
研修での学び
 
1) コミュニケーション
 このことは私が研修において学びたいと思ったことの一つであるが、今回ロールプレイを含めた研修で多くのことを学ぶことができた。今までも日常において傾聴や共感といった言葉をよく使い、それを行っているつもりであったが研修を受けて今までのその浅さに気付かされた。話しを聞くこと、すなわち傾聴ということを今まではただ聞くというレベルで終ることが多かったように思う。そして聞きたいことがあってもその答えが返ってこなかった時には、うまく引き出せなかったという気持ちだけが残り、次はどうやったら聞き出せるだろうかと考えていた。今考えるとそれは自分の思いだけでコミュニケーションをすすめていることが多かったからではないかと思う。相手がどんな思いでこの場にいて、発する言葉の奥にはなにがあるのか、なぜそう言うのか常に考えながらコミュニケーションを図ることが大切だと感じた。そしてその際には、講義の中にあった0pen ended Question、事実や感情のオウム返し、まとめ・明確化などのコミュニケーション技術をうまく使うことが不可欠であるだろうと思う。
 ロールプレイで感じた事は、沈黙の長さは看護婦にとっては長く感じても、患者にとってはそれほど長いものではないということである。講義では、沈黙の間に患者は心の中で色々葛藤していると学んだ。実際自分が患者役をやった時には沈黙という時間は、どう話そうか考えたり、自分の考えを整理したりする時間であり、そのため長いとは感じなかった。今までも沈黙は大切な時間であると考えていたが、それでも自分にとって長く感じてしまうとその「間」に自分自身が耐えられなくなり、言葉を発してしまうことがあった。こちらがその時間を辛く感じると、それが相手にも伝わってしまうものではないかと思う。患者役をやった時の沈黙では看護婦役の相手が困っているのがわかり、困らせていると感じた。もちろんその時の状況や人によって沈黙の時間の長さや在り方の意味、沈黙の感じ方はかわってくるだろう。しかし患者と一対一で接している時には沈黙を含めたその時間の持ち方を意識することが大切だと思う。
 よりよい医療者―患者関係のために「ギャップはあるのが当然で、それをうめるためにアンテナをはる」「話しをしたくないときもある。しかし今そうなのかを知るために気持ちのドアをノックしてみる。それにより話したいのかどうか判断する。ドアが開かなくても無理に開けようとしない。まずノックしてみることが大切なのである」と講義で学んだ。今まではノックの仕方やその意味についてよくわかっていなかったがために、ノックさえできないことが多く、例えノックしてもドアが開かないときにはその原因の多くは自分のコミュニケーション技術の未熟さや信頼関係の不足にあるとばかり考えていたように思う。もちろんそれもあるとは思う。しかし、それだけではなく患者の心理について理解が足りなかったのではないかと思う。患者には様々な心理状態があり、聞いて欲しいことがあってそこにたどり着いた時は自ら話すこともある。1人の患者でもその時によって感情は動くものでありそれは当然のことである。気持ちは揺れて当然であり、その時々の気持ちを自分がまず受け入れる必要があるのではないかと思う。気持ちや感情が揺れるということはコミュニケーション以外の講義―家族看護概論やサイコオンコロジーなどいくつかの講義の中でも何度か聞いたことである。振り返ってみると今まではこのことに対する認識もかなり足りなかったのではないだろうか。考えてみれば気持ちや感情が揺れるのは、人間なのだから当然のことなのだが、この認識がなかったために、以前に言っていた言葉や気持ちをいつまでもそのままだと勝手に思ってしまっていたように思う。講義の中で、Fink危機モデルの4段階でもその段階が進むとそのままというのではなく、4つの段階を行ったりきたりするものであるとあった。このことを理解し十分に認識していなければ適切な看護介入はできないだろうと思う。
 「告知」―この表現も一方的に伝えるという意味合いが強いため緩和ケアでは使われないことも多いが、この告知についてもコミュニケーションと大いに関わってくると思う。Bad News=悪い知らせを伝えることはやさしいことではなく、準備が必要である。伝え方も一方的になったり機械的になったりしてはいけないし、伝え方と共に告知後どう関わるのかが重要である。Bad Newsを聞いて患者がどう感じているのか、これがわからなければその後のかかわり方も見えてこないであろう。どう感じているのか、不安や疑問に思ったことは何か。その思いを傾聴し共感するためにはコミュニケーション技術を含めた専門職としての能力も問われるのではないかと思う。
 今まで述べてきたようなことを今回少しでも理解できたことで、自分の中でのコミュニケーションに対する答えが少しずつではあるが見えてきそうな気がする。現実に病棟でコミュニケーションをすすめていくうちにまた壁にぶつかったり、うまくいかなかったりすることもでてくるとは思うが、人と人との関係なのだから難しくて当たり前であるという講師のことばを胸に、少しずつはじめてみたいと思う。
 
2) 家族ケア
 私はかねがねどのような最期を迎えるかは、患者がなくなった後の家族に大きく影響するのではないかと考えていた。しかし、当病棟では遺族ケアにまで至っていないことや自分の勉強不足などもありそのことについて確信は持てないでいた。今回家族看護概論の講義の中で「どのような終末期を迎えたかが死別後の家族の適応に影響する」と学び、家族ケアの重要性について認識することができた。今までは患者の状態が良くないのに治療を望んだり、その病状の悪化を受け入れられない家族に対して“なぜそんなことを望むのだろう”“何とか受け入れられるようにしなくては・・”とばかり考えてしまっていた。しかしこれも、まず家族の気持ちをこちらが受け入れるということに欠けていたように思う。危機的状況にある家族にとっては「無理やり現実志向の援助を行うと援助そのものが脅威となり援助は拒絶され、後々まで援助者の価値が否定されることがある」と学び、やはりまず私が家族はなぜそう思うのか考え、私の価値観で家族の気持ちを評価せず、家族の気持ちを私が受け入れ共感しなければならないのだと思う。また、「どんなにうまくいっていて、充分なケアをしたと思える家族でもどこかで罪悪感を感じており、あの時こうすればよかった・・と思い描くものである。」と講義であった。うまくいっていたようにみえる場合でもそのように感じるのであれば、告知していなかったり患者の苦痛が強い時には更に罪悪感に苛まれるのではないだろうか。一般病棟である当病棟においても告知されていないケースもあり、その場合、より家族のケアに目が向けられなければならないだろう。そして決して家族が未告知を希望したのだからということで済ませたりせず、そうせざるを得なかった家族の気持ちを少しでも理解し、家族の決断を支持する姿勢が大切ではないかと思う。医療者と考え方が異なった場合、とかく“こうした方が・・”とこちらの考えを進めがちである。しかし、医療者には医療者なりの、また医師や看護婦個々の価値観があるように、患者や家族にはそれぞれの価値観があり、そのことを強く認識しておかなければ相手を理解することは非常に難しいことになるだろうと思う。また、人間は現状をわかっていても常に死に直面し面と向かうことはとても大変なことであり、一時的に死という現実から離れたいという心理が働くことがあるということも理解しておく必要があるだろう。そうすることが家族の気持ちを私たちが受け入れ、共感することにつながっていくのだと思う。
 家族の考えや気持ちが自分と違う時に、その気持ちや考えに共感するのは易しいことではないと思う。しかしその時の家族の気持ちを自分の物差しで計っていたのでは共感につながっていかないだろう。自分との違い、相違を感じ確認した上でその人にはその人なりの考え方、心情があるのだということを認めることではじめて共感へとつながっていくのではないだろうか。この考え方は家族や患者に対してのみでなく、チームとしてケアを進めていく上でチームのメンバーに対してもしていく必要があると思う。
 今までもそれなりに家族へ関わろうとはしていたが、この研修を受けたことで私が今まで思っていた以上に家族へのケアは重要であることを知った。今後は常に患者や家族の気持ちを理解しようとする姿勢を大切に、今まで以上に家族に関われるようになりたいと思う。
 
3) 死生観
 今まで終末期の患者や家族の気持ちに踏み込めていなかったことの大きな理由の一つは、この死生観について考えたことがなかったからではないかと思う。日常的に看取りを経験しているのに、その死はどこか他人事で、慣れてはいながらその重みについては感覚が鈍くなっていたように思う。命はいずれなくなるものと頭でわかってはいても、それが現実となると“受け入れる”などと言う言葉でそう簡単には済ませられるものではないと、研修を終えた今感じている。人は死ぬその瞬間まで生きており、その瞬間までが人生である。そこにはそれまでの何十年分もの思いがあり、私たちが関われるのはそのほんの一部でしかない。しかしほんの一部でも人生の最期は大きな意味を持ち、それまでの生き方が反映される。死はとても重いものであるけれど、しかし誰にでも訪れる身近なものであり避けられないものである。看護者としてそこに関わるからには死について考え、取り組むのは自然なものとも言えるのではないだろうか。死生観とは何か、自分の死生観はどうなのか。この問に対する自分の答えはまだ見つかっていない。しかしそのことを自分に問う姿勢がまずは大切なのではないかと思う。これをなくして死の迫った患者と真に関わることはできないだろうと感じた。
 
おわりに
 
 始まるまでは長いと思っていた6週間の研修も、終えてしまうとあっという間に過ぎ去り短かったとさえ思えてしまう時間であった。今この研修を振り返ってみると実に多くの学びを得られ、とても有意義な時間を持つことができたと感じている。様々なことについて学んできたが、自分を見つめ振り返ることができたのも自分にとって大きな収穫であった。
 自分なりに緩和ケアについて考えてみると、それは特別なケアの方法ではなく、看護婦という人間が人間である患者や家族と関わる時にどういう姿勢でのぞむのか、というその姿勢のあり方のことではないかと思う。そうであればそれは決して緩和ケア病棟やホスピス、また、終末期の患者だけに当てはまるものではないだろう。具体的にどうしたらよいかまだ模索しているところだが、一般病棟における緩和ケアを考えたいという今回の目標に対する答えのヒントは得られたように思う。今回の学びを少しずつ自分のものにし、そして一歩一歩進めていきたい。最後にいつもあたたかく見守って下さった神戸研修センターの皆様に深く感謝いたします。ありがとうございました。








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