共に生きかかわるケアの手として
筑波メディカルセンター病院 植野 佳子
1. はじめに
私は、学生時代に“自然治癒力が整えられる援助とは”をテーマに卒業論文を書いた。そして、その後の臨床の場において常に、同じテーマを心の片隅におき、看護に取り組んでいる。
1年前から、緩和ケア病棟に勤務するようになった。緩和ケアの理念と、そして学生時代からのテーマを念頭に、患者、家族と向き合いケアを提供することに、私なりに努めてきた。
今回、この研修に参加するにあたり、[1]症状マネジメントについて学ぶ。[2]家族援助について学ぶ。[3]チームアプローチについて学ぶ。の3点を課題とした。この課題のもと、講義や施設実習を通して、これまでの自分の看護を振り返りながら、今後の新たな課題を見い出すことができたので、ここに報告する。
2. 3つの課題を通して
[1]症状マネジメントでは、身体的側面にとどまらず、心理・社会的側面にも目を向け全人的にとらえていく事、その人のぺ一スを大切にしゴールを決めて進めていく事が大切である事を学んだ。さらに、これらから考えを深めて、次のことを学んだ。その人を全人的にとらえ、認知能力に呼びかけ、その人のセルフコントロール力を引き出していく事。その力を引き出すことにより、その人らしい生活支援に近づく事。その人らしさを尊重し、見守る中で、見過ごしがちなその人の力をきちんとキャッチしていく事が大切である事。人間の持つ力のはかりしれない大きさと、その力と協働していく事の大切さ。固定観念に縛られずに、柔軟性を持ちその人のニーズに対して、工夫してケアを提供していく事。以上が、自分に欠けている部分である事に気付くと共に、看護に大切である事を学べた。
[2]家族援助では、患者の人生の最期にとどまらず、その“家族としての人生”という視点で、患者・家族を1単位として支援していく事が、家族援助の姿勢として大切である事を学んだ。限られた日々を、患者・家族が共に過ごし、家族がケアに参加する事で家族機能が高まる。それは同時に、患者・家族のQOLの向上にもつながる。グリーフケアは患者喪失後からと、自分の中でつい切り離して考えがちな傾向にあった。しかし、患者喪失後から、グリーフケアが始まるのではなく、入院中からグリーフケアは始まり、入院中の家族援助が大切である事を学ぶことが出来た。
[3]チームアプローチでは、そこに関わる人すべてが、患者・家族を共通理解したうえで医療・ケアを提供する事が、患者・家族のQOLに反映する事を学んだ。それには倫理をふまえて、アサーティブな関係で考え、話し合えるチーム作りを、各自が認識し実践していく事が、大切である事を学んだ。
この3つの課題を通して学んだ事から、緩和ケアに関わる看護者として、患者・家族とどう向き合うべきかという原点に戻り、ケアという関わりについて考えることが出来た。全人的に相手として、人として向き合うところに“共に生きかかわる”事が、看護者のあり方ではないかと考えた。
3. “共に生きかかわる”
人間には、目には見えない内なるエネルギー“自然治癒力”があるからこそ、“生きていける”と考える。自然治癒力への働きかけには、看護者の観察力・感性・人間性が人きく関係する。それは看護が、患者と看護者の相互関係であり、内なるエネルギーの授受過程であるからと考える。 人間は、いろいろな形で、自分を表現している。私達の目の前にいる患者・家族もいろいろな形で、自分を表現し、サインを出している。
私達看護者は、専門知識に固執せず、五感を働かせて患者・家族のサインをキャッチしていきたい。
サインは、言語的なものだけでなく、非言語的なものもある。言語的なものの多くは、無意識的なものが多く、それはその人の本音に近い表現ではないかと、私は考える。言語的なものからだけでなく、非言語的なものからも、その人のサインをキャッチするのを逃さないようにしたい。
五感を使って、直接見たり、聞いたり、触れたり出来るのは、相手の話し方・表情・態度・言葉などである。しかし、同時にそこには、見たり聞いたり触れたり出来ないものも、存在する。それはその人の境遇、価値観、宗教観なども含めた内面の、心の叫びが存在し、にじみ出されていると考える。その人の行動すべては、その人そのものを表していると捉えていきたい。看護者は、そのサインを受け止めたうえで、主観的ではなく、客観的に捉えていく事が大切である。つい主観的になりがちだが、そうならないよう、受け止めたことをその人に、フィードバックして対応していく事が大切である。患者・家族と看護者が、互いに問い、かつ呼びかけ、互いに感じて考えて対応していく事が、患者・家族との関わりの姿勢の第一歩だと考える。
そして、全人的な関わりとして、患者・家族にしっかりと視点をおき、相手のありのままのニーズと状況を理解していきたい。それらに合った関わりを、チームで工夫・努力して、ケアを提供していく事が大切である。看護者として常に、相手と向き合い、ふれあう姿勢をもってケアに望んでいきたい。ゆとりある心で、その人に関心をよせていく事、相手も自分も同じかけがえのない人という、対等な姿勢をもちあわせていきたいと考える。
がんという病気に出会い、苦悩して、今を生きるその人に視点をおき、相手のニーズと状況をキャッチし、工夫と努力をする姿勢で“共に生きかかわるケアの手”となれるよう努力していきたい。
4. 私も一人の人間として
私は、これまでに臨床の場以外に、自分の大切な家族や親友を失ってきた経験がある。また、健康しかとりえのない私が、ある病気に出会ったとき、病気自体の苦しみより、辛く感じるものがあることを経験したことがある。
それは、自分をさらけ出せると思っていた存在の人に、病気について告白した時の事である。その人に、私の思いを受け止めてもらえず、その人の反応に孤独と、絶望を感じた。その反応に対する思いを、私はどこにぶつけたらよいのか、一人葛藤した。その中で、社会的、精神的辛さを、身にしみて感じた。
今思うと、スピリチュアルなものであったようにも思える。その辛さは、時間の経過と、自分の考え方が癒し、励みとなった。それは自分は看護婦という、人の健康を説く立場にありながらも、自分の不注意で病気に出会った。そして辛くて落ち込み、ただ無力感で一杯になり、自分も弱い人間であることをひたすら実感した。万能な人はいないと実感した。自分の弱さを認めた時、自分らしさを実感できた。
そんな一人の人間としての、エピソードをもちつつも、患者・家族と向き合う私は医療者として“何かしなければ”“医療者なんだから”という気持ちが強かった。医療者なんだからという思いの強さゆえに、何か大切なものを見落としていたと感じる。それが例えば、症状コントロールの中で薬物療法に目が向き、看護の介入が希薄になっていた点につながると感じる。また、患者・家族と向き合うとき、傾聴を主な手法として、共感的理解をしていく事で、苦しみが軽減すると感じてきた。しかし、同時に死を前にして、現れる孤独・無情・喪失といった思いは、どれほど心をこめて接していっても簡単に和らぐものではないと、自分の喪失体験から、感じていた。
患者・家族と向き合うとき、時に自分も一人の弱い人間として、認めて向き合うことも大切ではないかと考える。看護者としてではなく、自分も一人の人間として、患者・家族と向き合う姿勢を持ち、寄り添っていきたいと考える。そう努力していきたい。
5. おわりに
この研修を通して、気付き学んだことを、臨床の場で生かしていきたい。まだまだ、学んだことが、自分のものにできていないものが多いが、患者・家族と“共に生きかかわる”なかで、また、チームのメンバー同士が助け合い、協力し合う中で、振り返り考えを深めていきたい。
また、この研修で講師の方々をはじめ、関わることが出来たすべての方々から、心の豊かさを感じた。私も、心豊かになるために、感性を磨いていきたい。
そして、緩和ケアを通して“共に生きかかわること”“自然治癒力が整えられる援助”について、常に私のテーマとしてみつめていきたい。
参考文献
1) 中川米造編 病の祝座 メディカ出版
2) V.ヘンダーソン著 看護の基本となるもの 日本看護協会出版会
3) ミルトン.メイヤロフ著 ケアの本音 ゆみる出版
4) 柏木哲夫 生と死を支える―ホスピスケアの実践 朝日新聞社
5) A.デーケン 生と死の教育 岩波書店
6) 村田久行 ケアの人想と対人援助 川島書店
7) 季羽倭文子 家族看護学