日本財団 図書館


●話題提供―その2

身障者が望む公共トイレ

 

妻屋明

全国脊髄損傷者連合会会長

 

[脊髄損傷者の社会参加とトイレ]

脊髄損傷というのは、脊髄の神経をおかされるので、首から下、腰から下、胸から下が麻痺する。麻痺すると膀胱直腸障害が発生する。このことによって、トイレのコントロールが非常に難しくなる疾患になる。

脊髄損傷者が社会に参加するということが困難であった今から27年前、1973年脊髄損傷になった。けがした当時は車いすの人を見たことなどなかった。3年くらい経ってから、治療とリハビリを終えて社会に出ようとした。ハンディキャップを負って社会に出ていくテクニックは、諸先輩から教わった。1]車を運転すること、2]車いすをこげること、これができればどこにでも行くことができると教えられた。

同時に、生理的な現象をどこでどうコントロールするかは、もう一つの技術(テクニック)として求められる。このテクニックは、自分の体と相談してコントロールしなければいけないわけで難しい。1976年当時、日本の国内では、街の中に車いすで使えるトイレの状況はお寒いものだった。どこか出かけるとなると、トイレの地図を頭に入れて出なければいけない時代があった。それ以前の脊髄損傷者の方は、その時代は苦労をした。

脊髄損傷者連合会は、いち早く車いす用トイレの設置を政府や自治体に要求してきた。社会に出て活躍をしたいという要望の中から、設備(インフラ)が必要であると訴えてきた。トイレについては熱い思いを持っている。社会に対する期待も大きい。

いつも採算性ということになるが、もともとそういう人たちのためのトイレがあれば、要求することもないし、採算性を計算することもなかったわけだ。途中で社会に出だしたもので計算をしなくてはいけないということで、社会は困ったろうと思っている。しかし、社会が困っても私たちのせいではなく、社会自身が原因というしかない。治療をしてリハビリをしてたくさんのお金をかけて社会に出るわけだ。その人間が社会に役立たなかったら、医療費もリハビリ代も自分の努力もすべてパーになってしまう。

東京オリンピック・パラリンピックを境に、障害者はどんどん社会に出るような方向になった。以前はすべて療養所か病院で一生を過ごす状況だった。ところが世界的に脊髄損傷者のリハビリテーションが発達して、日本でも昭和39(1961)年頃から、社会に出るべきだという方針になり、システムになってきた。

一歩社会に出た瞬間から、トイレの苦労がズーっとつきまとう。前にもいったように直腸と膀胱障害の疾患が出るからだ。失敗するたびに、二度と食事はとりたくない、水は飲みたくないと悩む。そのつらさは全員知っている。心の中に刻まれている。心の障害として残っている。非常に恐怖がある。しかし、長年社会に出ていると、体のリズムを覚えてくる。コントロールをすれば、安心して出かけられる状況になった。障害者の中でも脊髄損傷者は非常に行動的な障害者で、旅行をよくする。

 

[障害者と旅行・外出先のトイレ]

旅行をすると、ホテル、宿泊設備はどこにあるのかということがポイントになる。宿泊ガイドブックを必然的に作るようになった。

1984年第1版 320軒(トイレ1個ある程度)…最低レベル

1987年第2版 350軒

1994年第4版 1000軒

1998年『全国車いす宿泊ガイド2001』 1731軒

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION