ただ、不登校であることが社会に対する不適応とか、落ちこぼれという誤解と偏見は悲しいのでやめ欲しいと願っています。事実、不登校であった子も立派な社会人として、また父親や母親にもなっています。
私の長男も現在は学校へ通い、また不登校の子どもたちの支援活動にと、私と友人とで設立した子どもの居場所を考える会では、ふれあいコンサートに出演し、和太鼓の演奏に、また進行役にと、中心的役割を果たしてくれました。また鉄道が好きで、今年の夏休みには、3日間で何キロ列車に乗って旅ができるかに挑戦し、実に3日間で900キロも乗車した記録を作りました。
子どもの居場所を考える会で、新しく鉄道クラブも作るといって張り切っています。
大人社会の見直しを
日本の社会は、学歴で人間の価値を計り、学校で活躍する子は価値が高いとされていますが、自分の個性と合わない場所であれば行きたくなくなってしまうのも当然の現象と思います。人生という旅では、だれだって甘えたり、怠けたり、多少の寄り道はあるでしょう。
私は今、それを世間が理解することの必要性を感じています。
不登校になる、なっている子どもはかなり悩んでいますし、また中学校年齢の子であれば受験のことで苦しんでいます。教師による体罰、管理、また成績の競争、友人関係(いじめ)など、さまざまな理由から不登校になってしまう子どもを、わがまま、逃げ、協調性に欠けるなどと、どんどん追いつめるのではなく、なぜ子どもたちが学校に行かなくなるのか、行けなくなるのかを、もっと社会全体で考えていかなくてはいけないと思っています。
安易に心の病と決めつけ、精神科で入院、薬づけになるなど、本当に必要なのかどうかを疑ってしまう事例もあります。また、社会性の訓練などと、宿泊施設にあずけられてしまう子どももあります。家庭や社会が、不登校を異常視しさえしなければ防げることがたくさんあります。そして、不登校の子どもすべてが問題行動を起こすわけでもなく、また学校に通っている子どもが、問題行動を起こさないわけではありません。
命令や禁止、管理、また評価のあるところで、子どもが伸び伸びと成長できるとは私は思いません。子どもの考えや気持ちを尊重し、いろんな人と出会ったり、いろんな経験をしながら楽しく生きていく。そんな空間であれば、少なくとも不登校の数字はもっと少なくなっていくと私は考えます。
自分にされてイヤなことはしてはいけない、自分に言われてイヤなことは言ってはならない。禁止事項としては、これで十分なのではないでしょうか。
大切なことは、正直に生きるということでしょう。困った時には困っていると、他人に言える勇気を持つこと。困っている人には、力になってあげる優しさを持つこと。うれしい時には、素直に喜ぶ心を持つこと。うれしそうな人がいたら、いっしょに喜ぶ心を持つこと。すべては心であると思います。
豊かな心を育てる教育、これこそわが国に最も必要な教育ではないでしょうか。
今の社会は便利で効率の良いことが最優先されていますが、そんな中で心といっても、無理があるかもしれません。大人社会を見直さなければ、子どもたちにそれらを要求するのは無理な話なのでしょう。
しかし、親である以上、どんな困難なことにも真正直に向き合い、またその姿勢を子どもに示していかなければならないのだと思います。