日本財団 図書館


年末には念願の一眼レフカメラを買ってもらい、冬休みも頻繁に駅へ出かけた。鉄道趣味の仲間と街中を歩くことも増え、鉄道模型やカメラのお店などに立ち寄って、好奇心を高めていった。

こうして、偶然にも早朝から外出する機会を得たことによって、引きこもりの状態を脱し、さらに昼夜逆転の生活も徐々に昼型の生活へと改善されていった。昭和63年の年末は天皇陛下のご容体を知らせるために、テレビでは字幕による終夜放送が行われており、バックに皇居近くのカメラから山手線の電車が遠く映し出されていた。朝4時半頃になると電車のライトが見え、時刻表で始発電車であることを確かめたりしていた記憶がある。年が明け、昭和64年1月7日も、友達と1日乗車券を買って地下鉄に乗っていた。昭和天皇崩御の号外を街で受け取ったのを覚えている。

 

再登校の準備

そして、昭和から平成に変わって間もない中学1年の2月2日、担任の家庭訪問を受ける。進級に向けて、登校の意思表示を促しに来たのである。私の脳裏には、「留年」して年下の人と机を並べることへの不安があり、それだけはなんとかして避けたいとの考えがあった。そこで、翌日は私の誕生日でもあり、再登校に向けたなんらかの行動を起こすという約束をした。

家庭訪問の翌日、学校から紹介された区役所分室の児童相談員の先生を訪ね、再登校への準備を始めた。2月8日には、相談員の先生と父と3人で校長室を訪ね、校長先生、教頭先生、学年主任、担任との懇談も実現した。談笑する先生方の姿を見て、私は多くの人々に支えられていることを実感した。そして、2月21日の学年末テスト初日から復帰するのが良いのではないかということになり、児童相談員の先生といっしょに、若干ではあるがテスト勉強をした。

結果として、予定どおり21日からの教室復帰が実現した。テストの日は、みんな自分のことで精いっぱいであり、私に対してあいさつ程度の言葉がけをするくらいの余裕しかなかったようである。これは私にとって大変気が楽であり、テスト初日を再登校の日に選んだのはとても良かったと思っている。

中学1年時の欠席日数は、諸機関への通所を出席扱いとした上で、163日と記録されたが、それ以降中学2〜3年は年間数日の欠席、高校3年間は無欠席、無遅刻、無早退で皆勤賞をいただくことになった。

 

所感

再登校を決断できたのは、前年の秋頃から外出するようになり、気持ちが楽になっていて、たとえ学校復帰で学業の遅れに直面しても、勉強以外の生活を謳歌できるのではないかと思える余裕が生じていたからだと考えられる。不登校当初は、テストで満点でなければならないと思いつめていたが、その頃にはたとえ0点でも学校に行っていいのだという気持ちになれた。つまり、担任の先生が登校を促しに来たタイミングが、きわめて良かったといえる。そして、元号が平成に変わったことも、新たな気持ちでの再出発を後押ししてくれたかもしれない。

学校を休んでいて趣味のために外出することは、本人にとっても保護者にとっても、どこか後ろめたさがあったり、近所の目を気にして、ためらいがちになるかもしれない。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION