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結果として、小学6年の2学期以降、週に1日も出席しないという状況が増えてきて、年間130日程度の欠席で卒業した。

中学進学後、再起を図ろうと学級委員に立候補して当選したが、委員の仕事に行きづまり、5月の連休明けから欠席。翌年2月までの本格的な不登校になった。

 

行き場を失う

1学期のうちに担任から市の教育相談室を紹介され、母といっしょに2回ほど通所したが、相談員(指導主事)は母に対して、家庭(特に父)に問題があるとの指摘をするのみだった。私には学校での様子を聞いたり、心理検査を実施するという程度で、決して気持ちのいいものではなかった。結果として、私が通所を渋るようになってしまった。

行き場を失った私は、休日でも近所の目が気になって外出できなくなり、食事やトイレの時以外は自室に引きこもるようになっていった。また、朝起きると親が登校を促すので、それを避けるように昼夜逆転の生活に陥った。両親から学校のことを言われると、暴力で抵抗したこともたびたびあった。自室ではテレビゲームをしたり、ラジオの深夜放送を聴いたりして過ごしていたが、教科書等はいっさい開くことがなかった。電話やチャイムが鳴ると、担任からの登校催促ではないかと思っていつも脅えていた。

両親はしだいに、静かに見守る姿勢に転化していった。特に母は、NHKのラジオ教育相談を聴きながら気持ちを落ち着かせ、長期化を覚悟していたように思う。たまに立ち寄る親戚からは、「がんばって学校に行きなさい」と言われるだけで、それによって元気が出てくることもなく、かえって学校へ行かないことへの罪悪感が増していったように思う。

 

鉄道写真が自立回復のきっかけに

中学1年の秋、不登校前に知り合っていた1歳下の鉄道趣味の仲間から電話があった。学校が違うので2年近く会っていなかったが、地元のターミナル駅が改築されて、新しい電車が走り始めたということで、いっしょに写真を撮りに行こうと誘ってくれたのである。相手は私が不登校であることを知らず、こちらから事情を話すこともないと思い、日曜日の早朝という条件で誘いに応じた。

朝5時半に家を出発し、暗くなってから帰ってくれば、同級生にも見られないですむのではないかと考えた。母は朝4時に起きて、朝食の支度をしてくれた。こうして1本の電話が転機となり、久しぶりにひとりで外出することができた。

その後、日曜日には毎週のように駅へ出かけることになる。そこでは、電話をくれた小学6年の友人に加えて、同じく鉄道趣味の高校生と浪人生ともいっしょに過ごした。私はふたりが持っている一眼レフカメラに興味を持ち、撮り方などを教えてもらった。先輩方が鉄道のことを語る姿は、とても生き生きとしていた。電車に乗りながらお話ししていると、自分が不登校であることを忘れることができた。このようなかかわりの中で、私はしだいに、学校での成績が優秀でなければならないというこだわりから解放され、自分の好きなことに熱中しようという心境になっていった。

 

 

 

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