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苦しかったセンター試験

1月のセンター試験前は本当に不安だった。酔っぱらった父親と、元旦早々つまらないことでけんかをした。そこらへんにあるものを全部投げ付けて、荷物をまとめて家を出た。妹はおびえていた。母は私と父の間に入って、泣きながらとめようとしていた。家を飛び出しても元旦なのでバスはなくて、でも私は大阪の伯母の家に行くつもりだった。公衆電話から伯母に連絡をとったら、母にすぐ連絡が行ったようで、母が車でそこまで迎えに来た。その日は仲の良い近所の家で夜を明かした。翌朝大阪に行った。バス停まで見送ってくれた母の姿を窓越しに見て、とても切ない気持ちになったのを覚えている。

センター試験はどうしても受けなければと思っていた。克服しなければと。問題は解けなくてもいいから、会場には最後までいなくてはと思った。試験場の教室に入ると、私がやめた高校の制服を着た同級生たちで埋めつくされていた。知っている子もたくさんいた。私はひとり私服だったし、本当に胸がつぶれそうなくらい苦しかった。それでも試験は最後まで受けた。やりとげたという充実感を味わった。問題は少しも解けなかったけれど、集団の重圧に耐えられた自分に満足していた。

最終日に、元クラスメートで比較的仲の良かった子と出くわした。「変わってないね」彼女は言った。髪を染めたり派手になったりしていないということなんだろうなと思った。私がいっしょに試験場に行った友達は金髪だったし、目立っていたんだろうけど、その隣にいた私の外見は以前と変わっていない。世の中の人は、中退したら外っつらも変わると思っているんだろうなと再認識した。そう思われたくなかったから、私は中退してから外見を変えることを故意にしなかった。中身はなんにも見えてない。私はだいぶ変わったよと、言ってやりたかった。少なくとも、あの頃ほどうすっぺらではないと。

 

2年間の浪人生活

2次試験が受けられるようなセンター試験の結果は出なかったので、浪人が確定した。やめた高校には、模試だけは受けさせてもらえることになった。たったひとり、私がその高校で好感を持っていたF先生のはからいで。F先生はたまに手紙をくれたりしつつ、私を応援してくれた異色の先生だった。

志望校はひとつにしぼっていたし、目標設定はできていたはずなのに、なかなか勉強ははかどらなかった。親友のSは現役で志望校に合格して、地元を離れてしまった。寂しかった。もう逃げ込める場所はないのだと思った。Sがいなくなることで私がまた落ち込むことを心配してか、Y君は以前よりも頻繁に会いに来てくれていた。友達と遊びに行くのに誘い出してくれたりもした。

Tさんとの勉強も続いていた。図書館通いもするようになった。しかし、やはり塾などにもサポートしてもらわないと、ハードルが高すぎるのではという話になった。予備校には行きたくなかった。学校のような場所には抵抗があった。夏頃になって、自分でいくつかの個人塾を回ってみた。見学して、話を聞いて。そして、とある塾に通うことにした。自習室があったことが決め手になった。そこまで行動しておきながら、なかなか勉強をする気にはなれず、いかに楽をするかを常に考えていた。今日は何時間やったからいいや。言い訳をして、自分から逃げてばかりいた。

 

 

 

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