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Tさん自身も大学院で教育の勉強をしつつ(体育の先生を目指しておられた)、それでも現在の「学校」に対する疑問を持っていたし、いろんなことを考えておられた。Tさん自身の進路についてもいろいろ悩んでおられて、たまに私にも相談を持ちかけてくれたりした。

大検は無事終わった。自分ひとりで手続きをし、ひとりで試験会場へ行き、試験を受けるということは初めてだったので(学校にいたらいつも集団だった)、とても刺激になった。大検の会場では、接触することの多かった教育委員会の人に名前を覚えられ、その人とは休憩中や試験後によく雑談をした。学校に対する思いなども話した。

9月、大検が運よく全科目とれたという通知が来た。結果が来るまでの期間はとても長く感じた。その通知を受けて、家族も親戚も、もちろんTさんも、親友のSもY君も、みんなが喜んでくれた。これで同級生と並べた、と思った。私はもう高卒相当の資格を得たのだから。みんなにはあと半年もあるのに。

しかしこれで万事終わり、めでたしめでたしではもちろんない。これからがスタートだ。頭ではそう思っていた。思っていたけれど、私はまだまだ不安だった。

 

劣等感と優越感のはざまで

母方の祖母(母の母親)が他界したのもその頃だった。母も当然不安定だった。葬式などで親戚に会う機会が多かったのだけれど、仲のいいはずだったいとこたちとも、私は何か噛み合わないものを感じていた。どこにも当てはまれない自分。みんなには自分にかまけて欲しいのだけれど、そんな状況ではもちろんない。葛藤だった。どんなに仲のいい親類たちとはいえ、集団の中に身を置くことに耐えられなかった。自分はみんなとは違うんだ。そう思っていた。普通、じゃないと。劣等感と優越感とを行ったり来たりしていた。祖母の死に対する悲しみ。しかしそれ以上に「自分」に入り込みすぎていて、けれどそんな自分をうまくコントロールできない情けなさ。苦しかった。とがっていた。刃物みたいだった。周りを攻撃することで自分を守っていた。みんなに認められたかった。私はすごいんだと。

Tさんには、大検後も勉強を見てもらっていた。Tさんとの勉強を拒んで、親友の家に逃げ込んだこともあった。勉強どころではなかった。母親に不満をぶつけることが多くなった。この年の5月からパートに出始めていた母とは、一日中顔を突き合わせていることはなかったけれど、とにかく身近に目標設定もできず、ただ生きているのがしんどかった。大学進学するつもりだったし、目標の大学も決めていたものの、全く遠い話のように感じていて、少しも現実感が持てなかった。

そんな私にIさんはいくつか役割をくれた。いちばん印象に残っているのが、当初中学3年生だったCちゃんのメンタルフレンドをさせてもらったこと。彼女の元には結果2年半くらい通った。彼女が待っていてくれることが、私の支えにもなっていた。実体験が少なく、言葉があまり出ない彼女をいろんなところに連れ出し、学校に行っている子がするように遊んだ。プリクラを撮ったり、ショッピングしたり。勉強も私なりに工夫して、彼女が興味を持てる形で進めた。私も自分の勉強をしっかりがんばっていかなければと、彼女とかかわりながら実感し始めた。彼女がどんどん現実適応していく姿に大きく励まされた。

 

 

 

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