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これはたいへん難しいように思われますが、私たちのほとんどが、生まれたときに一度経験していることです。

私たちは生まれたときに、何の条件もなくただそこに嬰児がいる、乳児がいるというだけで、誰かの世話になります。その子が誰の子であるとか、どういう性格の子であるということに関係なく、その子がいた、そこで息をしていたというだけで、誰かがその子を抱っこし、ものを食べさせ、体を洗い、寝つかせてくれたからこそ、今ここにいるわけです。

ということは、私たちは誰しも無条件に、ただ「いる」というだけで世話をされた、大層な言い方をすると「存在の世話をされる」経験を持っているということです。自分ではたぶん誰も覚えていませんが、人が生まれることを目にすることで、自分もそうされたと確信できます。

これは不十分な答えかもしれませんが、「死ぬと分かっていて、どうして人は死なないでいられるか」という大宅さんの問いに対する根本的な理由のひとつになるのではないでしょうか。つまり、自分がただ「いる」というだけで、何の条件もつけずに存在の世話をされた、それがある限り私たちは自分の身をないがしろにしてあっさり死んでしまうことができない。また、どんなに人に裏切られ傷つけられても、最後の最後のところでかろうじて人を信じられるのは、私たちの中に無条件で存在の世話をされたという記憶が、言葉にならないまま染み込んでいるからではないでしょうか。

無条件で世話をされるというのは、自分がはっきりと誰かの「宛て先」になっているという経験です。

私たちは物心がついてくると必ず条件付きでしか世話をしてもらえなくなります。今度の試験で前より成績が上がったら欲しい物を買ってあげるとか、優しくしてくれたらご馳走を作ってあげるとか、多くのケアが条件付きで出てきます。このような言い方は、自分が「宛て先」ではなく、いい子である自分や、優しい自分、苦しんでいる自分という、自分の属性が目指されているわけです。

ここに、イギリスの精神科医のレインが、『自己と他者』という著作の中で引いている設問があります。

 

 

 

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