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その場合、言葉は飲み込まれ、口は閉ざされてしまいます。苦しみの中にある人からは、その苦しみは言葉として非常に聴きにくい、しかし、だからこそ聴かれなければならないと言えるのではないでしょうか。

その場合の「聴く」というのは、もちろん言葉を聴くということではありません。言葉を聴くというよりも言葉を飲み込んでいることを「聴く」、あるいは自分の中に引きこもってしまっている、そのことを「聴く」のが、ある意味で本当に「聴く」ということです。そして、そういう「聴く」があってこそ初めて言葉がやっとこぼれ落ちてくる、漏れてくるということが起こるのではないでしょうか。

苦しみの語りというのは、語りを求める聴き手の前ではなくて、語りを待つ聴き手の受動性の前で初めて、漏れるようにこぼれ落ちてくるもの―そういうものだと思います。

 

4 存在の世話をする 〜他者の「宛て先」としての自己〜

では、相手が言葉を発してくれないとき、相手から言葉がこぼれ落ちてこないとき、私たちはいったい何を聴くのでしょうか。いま私はその言葉を飲み込んだこと自体を聴かなければならないと言いました。言葉が出てこないということ自体を聴くような耳を持たねばならないとき、いったい人は何を聴くのか、何を聴こうとしているのか、それが最後の問題になります。

「言葉をじっと待つ耳」を前にするということは、語る側にとっては、語りの内容ではなく、自分がどんなことを言おうとも、とりあえずそのまま受けとめてもらえる、あるいは自分が語ったことによって発生するいろんな問題に一緒につき合ってくれるという確信になるのではないでしょうか。励まされたり、こういうこともあるよと別の道を示されたりするのではなく、まずはそれに先立って、この人なら何の条件もつけないで言葉を受けとめてくれる、ひき受けてくれるという確信を持てたとき、人は初めて言葉を口にするということがあります。

 

 

 

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