4 「祈り」が行動の根源であることについて
親切で慈しみ深くありなさい
あなたに出会った人がだれでも
前よりももっと気持よく
明るくなって帰るようになさい
親切があなたの表情に
まなざしに、ほほえみに
温く声をかけることばにあらわれるように
子どもにも貧しい人にも
苦しんでいる孤独な人すべてに
いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
世話するだけでなく
あなたの心をあたえなさい8)
ケアにかかわる人の根っこに問われる精神をこの詩にみる。マザー・テレサのこの言葉に与えられて私は生きてきた。永年の感謝の思いでインドを訪ねた。哀しいかな、マザーは3ヵ月前に逝かれたあとになったけれど。
「死を待つ人の家」「孤児の家」などを訪ね、私は多くの学びを得ていた。何よりも、朝5時から始まるミサ、300人のシスターの黙々と祈る姿。この2時間にわたる祈りのミサのあと、彼女たちは、障害のある人、高齢の人、ハンセン氏病の人、孤児たちと共に過ごす一日がつづく。祈る姿は自らの心を洗い清め、無になっていく過程であり、父の場合に記した「自然との一体」であり、今あること、今からなすことの「よろこび」であり「感謝」であろう。そこに何か大いなる存在―サムシング・グレイト(Something Great)―を感じざるをえない。マザー・テレサは5時のミサの2時間前に一人で座りつづけていたという。その人にしてはじめて「わたしの心を与える」という行為になったことがうなずかれる。
カルカッタの街には職を求め、食を求めてあふれんばかりの人がいる。そして道端には、今にも息絶えんとする人もいる。87歳のマザーは、死の直前まで、自らの腕にその枯枝のような人を抱え「死を待つ人の家」につれかえった。