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3 ふたたび「受容」の根源について

次の詩は私の父―重度脳性まひ者―の死の前年のものである。

「自然の教え」と題名がついている。

 

明るい朝は自然なり/暗き夜も自然なり

生きることも自然なり/不思議な日輪仰ぐべし

昔も今も変わりなく/あしたは東より夕べは入りあいと

なにを教えてござるかと/生死を離れて悟れよかし

不具な体にみ仏は/深きお慈悲を聞かされて

不思議な仏縁結ばるる (父七十五歳の作)6)

 

父は、若い日には何度か自殺を試み、果たせず、働くこともならなかった。ただひとつ祈りのなかに身をおき、一方で介護されつづけた生であった。その生き方から、娘の私は、障害のある人に関わって生きる今の業(なりわい)をいただいている。そこに何が存在したのか。今、前記の詩のなかに答えを見つける。

父の生の晩年は「自然」と一体であった。「自然との体」が生死を離れて感じられるという信仰があったのだ。そこには太陽があり、明るい朝、暗い夜がある。すべてがあまりにも、あたり前のことなのに、私たちはそこに「生かされている存在」のかけがえのなさ、ありがたさを感じているだろうか。

ここに、相田みつをの「ただ」という詩がある。7)

 

この世で最も大切なものは、皆ただ/太陽の光

野やまのみどり/雨や川の水

朝夕の挨拶/ゆうべの祈り/父母の愛

 

父は人としての誇りはもちろん、父親として男としての誇りも力も働きも、すべて一切合切失われたなかで生きねばならなかったからこそ、これらへの「気づき」があり、そして「生かされて」あることを感謝し、ひいてはそれが周りの者を「癒す」ことになったのか。

 

 

 

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