それが、ケアの<エンパワーメント>という働きだと思います。しかも、<ケアする人>もまた誰かをケアすることによって、自らの<頑健さ>に気づきます。自分がケアすることに喜びや生きがいを感じるとき、私たちは自分の<強さ>を誇りにすることができます。生きることが辛いことであると同時に、他者と関わり、他者と共に生きることが、自らの生に喜びと幸せをもたらすとすれば、ケアとは本質的に<生を豊かにする関わり>となるはずです。
5 <スピリチュアリティ>のケア―あなたとわたしの<幸せ>のために
私は、<ケアする人>が<ケアされる人>を苦境から引き上げてあげることがケアではないと言いました。ケアの本質的な意味とは、あくまで<援助に徹すること>であり、ケアを通じて、互いの資源を十分に活用することです。つまり、私がケアを介助や援助だと考える理由は、私たち一人ひとりが異なった存在であり、異なった生(人生=life)を生きているのだから、<ケアする人>が<ケアされる人>の生に介入することは根本的に不可能であると考えているからです。
<ケアする人>と<ケアされる人>とは、まったく異なる存在です。両者のあいだには、何によっても超えることのできない差異があります。それを、存在の仕方、あるいは生の在り方が異なると言い換えてもいいでしょう。私たちは、同じ時間・同じ空間を共有することができません。ある人が立っている場所に同時に、他の人が立つことはできません。つまり、私たちは絶対に同じ経験をすることができないのです。たとえば、二人で並んで立っているときに、右側に立つ人と左側に立つ人では、その人たちの身体に与えられる感覚的な情報がすべて異なります。それゆえ、両者が獲得する経験は根本的に異なっているのです。こうしたことを繰り返しながら、さまざまな人たちが他の人と異なった経験を積み重ね、その人のなかに多様な経験が堆積していくのです。
自分のなかに蓄積・堆積していく経験は、それが意識的なものもあれば無意識的なものもあるでしょう。いずれにせよ、これらの種々雑多な経験と体験を基本にして、私たち一人ひとりの個人的な歴史が出来上がっていきます。