ケアには、自己や他者の存在を肯定し、それらの存在を受け入れ、<ねぎらう>ことが含まれているはずです。私は、存在の肯定と<存在へのねぎらい>こそ、ケアを実践していくうえで忘れられてはならない大切な事柄だと思います。
4 <傷つきやすさ(vulnerability)>と<もろさ(fragile)>
先にも述べたように、私たちは完壁な存在ではありません。人間の不完全さ・不十分さ、さらにはある面での弱さを、「ケアの倫理」や臨床心理学では、<傷つきやすさ(vulnerability)>と呼んでいます。私たちは、他人から見ると小さなことでも傷つき、悲しみに暮れます。強さに価値を認める時代もかつてはありましたが、「ケアの倫理」では、強さが必ずしも絶対的な価値であるとは考えません。悲しみを受容しきれずに泣くことも、辛いことにくじけることも、それはそれで人間として当然の反応であると考えます。したがって、悲しんだり辛くなったりすることは、ただそれだけでは否定的な価値をもっているわけでありません。
しかし、「ケアの倫理」で忘れられるべきではないのは、<ケアする人>も<ケアされる人>も互いに<傷つきやすい>存在でありながら、何があっても、いかなる事態が生じても、生きていくことができるし、生きていかなければならないということです。つまり、私たちは、<傷つきやすい>けれども、どのようなことでも乗り越えて生きていけるだけ<頑健>でもあります。このことは、矛盾しているように見えますが、矛盾しているわけではありません。
私たちは、いつまでも悲しみを引きずり、社会から退却しているわけにはいきません。いつかは悲しみから抜け出し、自分の足で生きていかなければならない。私たちは自分の生を生きることを止めるわけにはいかないのです。私たちは、生きている限り、一方ではさまざまに辛く悲しいことを経験するし、他方では楽しくて嬉しいことを経験していきます。それら数々の経験のなかで、私たちは自らの弱さを自覚していきます。