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貿易・海運業も英国の重商主義体制を離れ自由に世界にはばたくようになったが、これによる問題点も発生した。

独立後、米国と地中海諸国間の貿易に従事する米国貿易船が度々北アフリカのバルバリ海賊の襲撃を受け、通商が困難になるに及び、米国議会は1794年3月通商保護を第一目的とした海軍創設法案を通過させた。当時の米国は北アフリカのバルバリ4国、すなわちモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリに海上の安全と引き換えに多額の貢ぎ物を贈っている状況であったが、独立後9年にして新設された米海軍は1803年から1805年迄2年間トリポリ港を封鎖し、貢ぎ物の廃止と海上の安全を確保した。

また、1805年の英仏の全面戦争を機に、英国が海上封鎖を行ったため、米国の貿易は壊滅的打撃を被った。さらに英国海軍の米国船員の強制徴用に対抗して、米国は1807年出港禁止法に続いて、1809年通商断絶法を制定した。ここにおいて米国はヨーロッパの工業製品に依存せず、米国内で製造工業と農業が共存する国家経済政策へと移っていく。1812年には独立後始めて、カナダ問題が原因で英国と戦争することになるが、17隻の米海軍は世界各地に1,000隻以上の艦艇を保持する英艦隊を相手に健闘している。

その後の米国は西部への領土拡大と米国産業革命の遂行に全力を投入した。独立当時120万平方キロに過ぎなかった米国は、1850年には6倍半強の782万平方キロとなり、1860年からの40年間に工業投資額は12倍に、年間工業生産額は6倍に増加し世界一の工業国となった。

この間1823年には有名なモンロー宣言が出され、アメリカ大陸全体のヨーロッパからの隔離、西半球における米国の行動の自由を主張した。また、1819年の恐慌以来、米国の工業製品、農業を保護するために高率関税を課する要求が強まっていたが、1928年にアダムス大統領は高率の保護関税を設定し、貿易・海運業者、農園主と対立した。

20世紀に入るまでの米国はモンロー主義と高率関税が基本であり、海運業者にとってはマイナス面が多かった。1848年、メキシコ戦争が終る直前にカリフォルニアに金鉱が発見され、人々の西部移住熱が高まり、米国の西部と東部の物流も増大した。米国は1850年、現在のパナマ運河が通る地峡にパナマ鉄道を開通させたので、金のある人は船とパナマ鉄道を乗り継ぎ、金のない人は陸路カリフォルニアに向かった。米国の東岸と西岸の物流貿易にクリッパー船が活躍するのもこの頃の話である。

 

 

 

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