2-4 電波分野にみる軍事技術の変遷
電波は1888年ヘルツによりその存在を確かめられて以来急速に技術開発が進められ、この100年間で数え切れないほどの技術を提供してきた。電波の利用法は大きく分けて通信、測位・隔測、エネルギー利用の3つであるが、最初に利用されたのは通信の分野でイタリア人マルコーニの無線電信の発明はあまりにも有名である。
マルコーニは1895年イタリアで2,400mの距離の通信に成功し、翌年イギリスにわたり特許を申請するとともに3,200m離れた地点間のモールス信号受信公開実験に成功、更に研究を進め1899年には英仏海峡約50kmの通信に成功、その後同調回路を採用して選択性を高める工夫をおこない、通信距離を飛躍的に増大し1901年英国・カナダ間の大西洋横断通信実験に成功し、無線電信は急速に普及することになった(参考資料8)。
無線電信は、直ちに軍事技術として利用された。マルコーニが無線電信を発明してから最初の世界的大海戦は、1905年の日本海海戦である。日本海軍は無電機を全艦艇に装備する計画を立てマルコーニ社から購入しようとしたが、当時の金で100万円という法外な額を要求されたため自主開発を決意し、日露戦争開始の前年1903年36式無線電信機を全艦艇に装備した。
36式の通達距離は150kmであるが、当時の実用機としてはなかなかの性能であったということが出来る。日本海海戦の勝利は、1905年5月27日未明対馬海峡を北上するバルチック艦隊を発見した仮装巡洋艦信濃丸が“敵艦見ゆ”の無線電信を連合艦隊に発信したことによりもたらされた。
一方バルチック艦隊は、ドイツのテレフンケン社の無電機を装備していたが故障の連続で、日本海海戦の時には使用不能の状態であったといわれている。
無線電信は当然商船にも急速に普及した。タイタニック号が沈没したのは1912年4月15日であるが、この頃は全部の商船が無電機を装備しているとは限らなかった。しかし、当時の最高の技術を駆使して建造されたタイタニック号には当然無電機が装備されており、タイタニック号が氷山にぶつかり浸水が始まると船長は無線通信士にSOSの打電を命じている。
距離90kmから1,000kmにいた7隻の船が、タイタニック号のSOSを受信している。SOS受信の3時間半後にはカルバチア号が救助現場に到着、無線電信の威力を示した最初の事故となった。
通信分野での電波の利用は、持続式電波の発生を可能にした電弧式発振器の発明による無線電話の誕生(1903)を経て、1924年頃には欧米諸国では中波の放送局が次第に増えつつあったがその年日本の電気試験所で始めて米国オークランド放送局の周波数96.1KHz、送信電力3KWの電波が受信された。ちなみに、日本のラジオ放送開始は1925年である。
1936年のベルリンのオリンピックではテレビジョンの実況中継が行われ、写真電送も実用化されるまでに成長したが、技術開発は急速に軍事技術に傾斜されていき、テレビ等の本格的普及は第2次世界大戦終了を待たなければならなかった。