文学散歩
海の文学への旅
第14話 土左日記III
〜五十五日の船旅の果てに〜
尾島政雄(おじままさお)
岡安孝男(おかやすたかお)画
●鳴門海峡を越えて
(一月)卅日(みそか)。雨風ふかず。海賊は夜歩きせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出だして、阿波の水門(みと)(鳴門)をわたる。夜中なれば、西ひむがしも見えず。男女、からく神仏を祈りて、この水門をわたりぬ。寅卯(とらう)(午前五時ころ)のときばかりに、沼島といふところを過ぎて、多奈川といふところをわたる。からく急ぎて、和泉(いずみ)の灘といふところにいたりぬ。けふ、海に浪に似たるものなし。神仏の恵み蒙(かうぶ)れるに似たり。けふ、船にのりし日より数ふれば、三十日余(みそかあまり)九日になりにけり。いまは和泉国に来ぬれば、海賊ものならず。
いよいよ鳴門海峡です。海賊は夜は出没しないということで夜中に出立。みな必死に神仏に祈った甲斐あってか、荒浪も立たず、無事淡路島をかすめて、翌朝五時ころには和泉国の多奈川に着きます。もう京はすぐです。
数えてみると土佐を立って三十九日、ここまで来ればもう海賊などは物の数ではないとほっと安堵の空気が広がる船内でした。
浪穏やかな中を沿岸の黒崎の松と波の白の美しさを賞で、箱浦では浜辺づたいに船にひき網をつけて引き進むなど一路住吉へ。
ひくふねのつなでの長き春の日を
よそかいかまで我は経にけり
それにしても、この船を曳いている網の長さのように、私たちも春の日を四十日も五十日もつらい船旅を過ごしたものだと、いまさらながら感無量の思いです。
二月一日(きさらぎついたち)、またしても風浪が高くなって船は岸和田近くの浦に停泊です。翌日もその翌日も風浪は止みません。
四日、船頭は、「けふ、風雲の気色(けしき)はなはだ悪(あ)し」と言って船を出そうとしません。ところが、この日は終日浪風は立たない静かな海なのです。腹立ちまぎれに、「この楫取(かじとり)は、日もえ計(はか)らぬかたなりけり」、この船頭はへ天候もろくに読めないたわけ者だと八つ当たりする始末です。どうも道中、この船頭とは相性が悪いようで、やることなすこと筆者にはことごとく不満のようです。
●神を直視するたしかな眼
五日、和泉の灘沿いに小津から石津へ。このあたり住吉の明神にかけて、松原の美しさで有名なところです。その青々とつづく美しい松原を眺めるにつけても、
いま見てぞ身をば知りぬるすみのえの
松よりさきに我は経にけり
考えてみると京を離れて土佐で五年、今帰洛の途についているが、久しいもののたとえに引かれる住の江の松でさえ、まだこのように青々としているというのに、私はもはやこんなにも歳をとってしまったものだなあ、と歳月の早さにただただ感じ入るのです。
それにしてはなお忘れられないのは土佐で喪った愛娘のこと。娘の母(貫之の妻)はこう詠むのでした。
すみのえにふねさしよせよ忘れ草
しるしありやと摘みてゆくべく
ここ住の江に船を寄せてくださいな。忘れ草があるそうで、本当にその名の通り、あの子のことが忘れるかどうか、摘んでいってためしてみたものだから、とまたもやわが子を偲ぶのです。