漁船海難遺児の作文
漁船海難遺児と母の文集より
ひとたび漁船海難が起きると関係者には数々の不幸が一度にふりかかるが、中でも悲惨なことの一つは海難遺児を作ることだ。父親を亡くした母と子は、それまでの幸せだった生活から一転して苦難の道を歩むことになるが、取り分け子たちの健気な頑張りには涙を誘われる。
今回は、漁船海難遺児育英会が平成七年に発行した漁船海難遺児の文集から二点を選んで紹介する。今後このよう遺児を増やしてはならないという願いを込めて…。
父の死と私
古川(ふるかわ)ともえ
その日は何の前触れもなしにやってきました。
漁師である父の船が明け方の午前三時ごろ、大型船と衝突して海に沈みました。その時、同乗していた祖父は何とか助かりましたが、舵を取ろうとして立ち上がった父は海に投げ出されたそうです。
母は、私が目覚めた時には港へ出かけていて、母の実家の祖母が家に駆けつけてくれました。兄弟四人と祖母とで食べ始めた朝食は、いつもと全く違う雰囲気の中ででした。
このとき、私はまだ半信半疑の状態でした。その後すぐに、NHKのニュースで「父、行方不明」とアナウンスされた次の瞬間に、私は「わっ」と、泣きくずれていました。
本当に突然のことでわけも分かりませんでしたが、父が晩秋の冷たい海の中にいることだけは確かだと思い知らされたからです。
朝の頭が混乱した状態から立ち直って、その日はとりあえず学校へ行くことになりました。いつもと同じように振舞うつもりでしたが、父の事故のことを知っている友達の一人は「しっかりしなさいよ」と、休み時間にずっとついていてくれました。他の子は「すぐに見つかるよ」と励ましてくれました。また、職員室で、先生方に事故のことを聞かされた時には、再び事故があったんだという実感がわいてきて泣きだしそうになりました。
しかし、心の中で「父は生きているんだ」と言い聞かせて、やっとのおもいでその時の涙をこらえました。
夕方、親戚の人々が集まって来ていて落ち着くことができずに、夜はあふれでた涙をこらえきれないで泣きながら寝ました。
父はそれから四日目にやっと、多くの漁協の方々のおかげで遺体があがり家に戻ってきました。
お棺のふたを開けると、少し顔の膨れた父の姿がありました。父の閉じた目から血がにじんできました。誰かが「家に帰ってきてうれしいから泣いているんだね」と言いました。私は「ああ、そうなのか」と共感したのと同時に、父はもうこの世の人ではないことを悟りました。
それからはお通夜にお葬式とで、お線香の匂いのたちこめた中での忙しい日々が続きました。
何もかもが一段落した時には、私の家の中に妙な静けさだけが残りました。
そんな静けさを打ち破るかのように、母は「必ずお父さんが私たちを守ってくれるからね」と言って、励ましてくれました。そんな母一人に苦労をかけさせないで私も頑張りたいと思います。
(筆者=当時、福井県敦賀市県立敦賀高等学校二年生。平成十一年三月福井県立大学卒業)