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本誌 幸運だったということではなく、気象・海象に気をくばるなど安全操業や安全航行に常に注意していたからでしょうね。夜はどうしていたのですか。

磯崎 夜がくると銭洲の瀬の近くにアンカーを打って寝ました。アンカーにフロートを結わえて放し、操業を終えて休むときにフロートを目標に戻ってきてフロートに船を結わえるのです。水揚げのときはフロートとアンカーを船に取り込み沼津に向かいました。

 

事故の発生場所と海況

 

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本誌 事故当日の気象はどうでしたか。

磯崎 当時の気象は、北東の風が風速二〇メートル前後ありましたが、普段の経験から見て危険なものではありませんでした。それでも沼津に向けてのコースはいつもより西寄りに取って、浅瀬から離れたコースにしました。これは黒潮本流と東よりの風の関係で三角波が立ちやすい場所を避けるためでした。

本誌 それでも事故が起きたのはどうしてでしょうか。

 

ブルワークがなくなる

磯崎 安全を考えて遠回りのコースをとったのですが、心配した三角波におもかじ(右舷側)のブルワークを一撃のもとにもっていかれてしまいました。あっという間の出来事でした。プラスチック船は木造船より丈夫なので、四千万円もかけているのですが、考えられない事故だと思いました。そしてその時、これはもう助からないと思いました。

本誌 ブルワークをとられてから船体を放棄するまでの経過を順を追ってお願いします。

磯崎 二十二時に三角波をもらって右舷側のブルワークがなくなり浸水しましたが、直ぐには沈没しなかったのです。ですから連絡など何回もとることができました。まず、僚船に連絡して事故に遭ったことと下田海上保安部(以下保安部)への連絡(その僚船が保安部とよく連絡していたので)を頼みました。しばらくすると保安部から電話(注、インマルサット利用の船舶電話、私の地元の僚船は各船この電話を持っています)がありました。保安部にあらためて事故の詳細を知らせるとともに救助を要請しました。

それからわが家にも電話して事故のことと、過去にあった僚船のことを例に挙げて、恐らくもう助からないだろうという自分の思っていることを話しました。(事後談ではその時の私は大変落ち着いていたとのことでした。)

しばらくの間、保安部とわが家に交互に電話を繰り返しました。また、保安部にはその都度GPSの位置を知らせました。

午前零時を回り段々船が傾いていよいよ限界と判断したので保安部、わが家に間もなく船体を放棄して海中に飛び込む旨最後の連絡をしました。海中に飛び込んだのは零時二十分ごろでした。

本誌 船体放棄までに時間があったようですが、その間何を考え、何をしていたのですか

 

ウエットスーツの効用

磯崎 保安部とわが家に連絡を取りながら船体放棄に備えて幾つかの準備をしました。船にはスクリューに縄などが巻き付いたとき、潜ってそれを取り除くため、ウエットスーツを一着持っていましたのでこれを大山に着せました。ウエットスーツさえ着けていれば二〜三日は耐えられると考えました。船の責任者としては、まだ若く生き延びてほしい大山にウエットスーツを着けさせたのです。私は下着などを着込んで二人ともその上から救命胴衣を着けました。

 

 

 

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