元室蘭海上保安部長
佐藤正男(さとうまさお)
悲惨な海難
北海道の海で、また一六〇トン級の大型漁船が瞬時に転覆沈没しした。酷寒の時化の海ではなく、海水温度も一九度と高く、風速東南東の風わずか三〜四メートルという平穏な海上模様のときにです。
このような状況にもかかわらず、わずか四人の乗組員が付近で操業中の僚船に救助されたのみで、船長を始め一九歳の若い乗組員を含めた一四人の行方は依然として不明という大惨事となってしまいました。
この海難はその揚網途中に発生したのです。
我が母港、我が家族の住む浦河港の目前の海域です。
その後、行方不明者一四人についての手掛かりは一切なく、ご家族は「迎え火」を焚けば帰ってくるとの言い伝えに従って、北海道JR本社から提供された鉄道の古枕木等を「迎え火」として燃やして岸壁で夜通し、長い間生還を祈って待っていたそうです。
人身事故を伴う海難は悲惨であり、残された家族の心痛には計り知れないものがあります。
今回の大惨事は、北海道では久しぶりのことであり関係者にはただならぬ大ショックとなりました。
なぜ瞬時に転覆したのか、なぜ一四人というほとんどの乗組員が救助されずに船と運命をともにして行方不明となってしまったのか。
地元の報道によれば、同船は、漁場が近いこともあって、はたしてバラストとなる清水・燃料油等を十分に搭載して重心をさげてあったのか、網にかかったすけそうたらが意外に多く甲板上に引き上げたとき、重量が過大でトップヘビーとなったのか、底引き網漁業は特有のジグザグ引き上げ揚網作業なので、その過程で網がスリップウェイまたは甲板上で予想外に片一方に寄って船体が傾いたのではないか、舷側の載貨門が開いていたようであるがその影響はなかったのか等が関係者の問題となっているようです。ただ、最も重大で最も悲惨な人命の損失、一四人の乗組員の行方不明については、第五龍寶丸生存者の談話として伝えられるところでは、誰も揚網作業中、作業用救命衣を着用していなかったようですが、誠に残念な問題と思っています。
前述のように海上模様は平穏で、付近で僚船も操業していたようですから、作業用救命衣さえ着用していれば、海中に投げ出されても浮いていて、もっと多くの人が救助されたものと、非情に残念でなりません。
海難防止について
海難防止は、一朝一夕で樹立されるものではありません。
皆の理解と日ごろの努力の積み重ねが、やがて実を結んで海難ゼロとなって本当の豊漁と喜びが浜に満ち溢れるのです。
私が最初に教えられた言葉の一つに「雨は怖れるな、されど水は怖れよ」という言葉があります。
私は、乗船中には雨着に頭巾を着けたことはありません。頭巾を着けていると、後ろから大事な声をかけられたとき聞き逃すことがあるからです。
これは例示ですが、このような基本として重要なことは各人が守る気構えが大事です。
次に、海難防止に当たる側の参考事項を私の体験から述べてみたいと思います。
私がある時期に勤務した北海道の根室海上保安部は管内に世界の三大漁場の一つである北洋漁場を控えていて海難多発の部署の一つでした。一度に多数の命を奪う海難も多く発生していました。
「管内漁船海難ゼロ」の厳命を上司から受けた私たちは、多漁種の漁船が多数在籍する根室の漁船乗組員に対してどのように取組むか、「徹底」をどのようにして行うかを検討することにしました。
まず海難防止講習会で使用する資料について検討しました。
従来の海難防止講習会で使用していた資料類は、比較的内容が難しく、「一般の漁船員の皆さんが理解し、体得するには困難な面もある」と考え、「誰にでもわかりやすい」「見やすい」をモットーにして平易な文章で表現し、しかも親しみやすいように、当時としては初の試みで三色カラー印刷の海難防止資料「海難防止のしおり第一号」を作成しました。