3 富士山北斜面の地下水
富士山北斜面においても、降水は豪雨時を除き殆どが地下に浸透し、地下水となって流動する。斜面の地下に浸透した地下水は、古富士火山の火山泥流の上を流れ下る。富士五湖の湖水は富士山山腹や御坂山地周辺の降水により涵養される。山中湖は自然流出河川を持っているが、他の4つの湖は流出河川を持たず地下水となって桂川や富士川方向へ流出する。
約2万年前のウルム氷期最盛期とそれ以後、富士山の北麓、現在の山中湖、忍野盆地、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖のあたりは富士山の噴火と河川による浸食により、度々湖の生成と消滅が繰り返された。その湖は宇津(うつ)湖、古河口湖、せの湖等と呼ばれている。
宇津湖は最も大きくなった時は、山中湖から忍野盆地まで続いていた湖で、その存在は忍野八海の湧池の地下水脈を形成している珪藻粘土層や、忍草、忍野中学、内野の3点のボーリングの深度17m前後に存在する埋もれ木、層厚1mの珪藻土の化石層、および山中湖と忍野盆地周辺にみられるかっての湖水面が形成した地形面等によって裏付けられる。
宇津湖は1万〜9,000年前に噴出した梨ケ原溶岩により形成された。
その後桂川に沿って流出した猿橋溶岩流は、直下の古土壌が14Cで8,530±170年を示し、上下の古土壌の花粉化石は現在より温暖な気候を示す。猿橋溶岩流は桂川の現河床上10〜30mに位置し、侵食の深さから噴出した時期は7,000〜6,000年前ごろと推定されている。猿橋溶岩流の下位から縄文土器が発見されており、猿橋溶岩流の流出は縄文以後であることが考古学資料により確かめられている。猿橋溶岩流により一時消滅していた宇津湖が再び誕生したと考えられている。
忍野溶岩流は寄生火山大臼・小臼から噴出し、下位の猿橋溶岩流との間に1.5mの古土壌を挟む。忍野溶岩流の上位には、6,000〜3,000年前の年代を示し、花粉化石は現在とほぼ同じ気候を示す厚さ2.6mの厚い古土壌がある。
その後12,000年前、鷹丸尾溶岩が流入して現在の山中湖が形成されるまえに、侵食作用により、この地域には再び渓谷が形成されていて、京の都から東国に下る街道が現在の河口湖や山中湖湖底を通っていたことが現在湖底に沈んでいる寺院の遺跡により推測される。
鷹丸尾溶岩の流入にともなう水文環境の変化によって、忍野盆地では、かって湖底にあった湧出口のみが形をとどめ、現在の忍野八海となった。
忍野八海は忍野低地の西端に位置し、出口池以外は旧忍野湖の湖底に位置し、北東―南西に、長さ400mの範囲に並んでいる。出口池はほかの7つの湧水から1km南方の、旧忍野湖の南岸にあたり、梨ケ原溶岩流の末端の湧水である。
足和田山の南側に、せの湖区域(西湖、精進湖、本栖湖)と旧河口湖区域の境界があって、せの湖区域では地下水面は930m、旧河口湖区域では標高830mで100mの差がある。せの湖区域では地下水は西湖へ、旧河口湖区域では東流して河口湖へ流入する。