標高1,700〜1,800m付近の山体の勾配変換点より下では、上方に分布する新しい時代の溶岩流(津屋の新富士火山新期)に比較し、流動性に富んだ古い溶岩流(津屋の新富士火山旧期)が分布している。岩体の大半は多孔質で、割れ目、空隙に富んでいる。その上下に厚い火山灰や火山礫の層が重なっていて、これらが全体として表流水を殆ど浸透し、経常的な河川は見られない。
富士山西麓の大沢、富士宮市の弓沢、富士吉田市の背面扇状地の数条の沢、忍野の“づな沢”等の沢の下方には扇状地性堆積物が広がっていて、表流水はここで殆ど地下へ浸透する。
洪水時における山麓周辺の谷部の流量の増加が、他の地域の河川の流域のように大きくなく、連続数百mmの集中豪雨の雨量でも、富士山体を構成する溶岩、火山灰、スコリアは、ほとんどその雨水を吸収する。
山麓に大量に流下している約1万年前の溶岩流は、長大な岩体を作っており、その途中にあって急速に冷却した溶岩の外側部は透水性の大きいクリンカーを形成し、溶岩の冷却しにくい内側や底部は斜面の下方に向かって流動して抜けだし、これが次々に繰り返され、やがて溶岩流の中に連続性に富んだ溶岩トンネルが出来上がったと考えられている。
富士山では溶岩中に大量の地下水が長時間にわたって賦存している。急勾配の上方部にあっては火山礫層が帯水層の役目を果たすが、勾配の緩い下方部にあっては、流動性に富み、冷却固化で生じた割れ目の多い多孔質溶岩がその役目を果たしている。
1959(昭和34)年から3年間の時間を費やし、富士総合開発(株)が富士宮からの表口登山道の標高1,040m地点をトンネルの入り口とし、長さ2,017m(1/300の勾配)の本坑とトンネルの奥で、延べ720mの側坑を掘削した。計画では、数千m3/日の水を得て、標高700〜1,000mの山麓の300ヘクタールの地域の開墾のためのトンネル掘削であったが、期待された水は得られず、わずかに湧出した水も、その量は季節的に大きく変動した。トンネル内露頭の観察によると、トンネル入り口から1,400m地点までに、数枚の溶岩流があったが、殆ど整合関係にあり、全く水気はなかった。第7層の溶岩は褶曲してもめていた。ここから若干の湧水があった。しかし、この層から先の溶岩にも地下水は存在しなかった。終点の少し手前で右支坑を掘ったところ少量の湧水があった。終点2,000m地点で垂直に深さ110mのボーリングをしたところ地下水面が検出された。
先の溶岩からの地下水流出部において、連続700mmの豪雨の降り始めから、坑内に湧出するまでの経過時間(10日間)と地表の浸透地帯と推定される海抜1,800m付近と湧出地点までの距離(4,000m)から試算すると、溶岩流中の地下水流速は一日400m(0.5cm/秒)となる。トンネル奥に近い第2の地下水湧出部での試算では、流速はさらに1桁小さくなる。富士山体の溶岩中の地下水の流れは、勾配の割にはゆっくりしたもので、決して河川のような流れというほどではない。