最初に乗せられた地点はわかっているのですが、船がどちらに走っているのかまったくわからない。外を見ることは禁じられていますから見えないのですが、トイレに行くときに窓からちらっと外を見る。私のいたところの前側にドアでデッキに出るようになっていまいしたから、そこを通るときに外のほうを見るとか、なんとか位置をつかみたいと思ったのですが、まったくわかりませんでした。
ただ部屋に三つほど窓があって、昼間太陽が照っている時は、太陽の光がさしてきて方向がわかり、だいたいの時間から考えて、太陽の方向はこっち、そうすると船はこっちに走っているはずだ、という想像はついたのです。そうすると、だいたい北へ行っているんだと思っていたのが、今度は南に走っていることもある。どうも考えると、ある方向に向かって一定に走っているのではなくて、案外同じところを行ったり来たりしているのではとそのときは考えていました。
われわれの乗組員はフィリピン人ですが、フィリピン人もインドネシアの言葉がわかるのが1人もいなくて、連中が何を言っているのかわからないのですが、彼らが言うには、どうもほとんどの人間はインドネシアの人間だということです。インドネシアの人たちはフィリピンの人のように英語が普及していないから、英語がほとんどわからないに近い。ある程度の単語がわかる程度でした。もちろん海賊と会話をするということはあまりないのですが、何となく入り口に近いところだと、ガードで絶対に口を利かないやつもいるし、少しは話すやつもいるので、情報を得ようと思って、いったい、どうしようというのだと聞いたら、われわれの船から取った貨物を上げるまではここにいるだろうということでした。
揚げ荷の仕事が遅れているから、どこで上げているのか、どこに行っているのか、全然わからないのですが、「それは何日ぐらいだ?」と聞くと「明後日ぐらいだ」と随分いい加減なことを言います。それが終わればもとの船に帰れるとか、向こうはこちらを騙そうと思って、都合のいいことを言っているのだと、話半分に聞いていました。
ちょうど6日目だったのですが、29日のほとんど夜中の0時ごろだろうと思います。その前にも、止めることはあまりなかったようですが、たびたびエンジンをかなりスローにしてみたりしていたのが音でわかっていました。連中にはどこかに基地があったようで、補給でそこに寄ることもあったように思います。
海賊が言うのには2日ぐらいしたときに、お米がなくなったといって、出てくるのはラーメンだけになったりしたことがあったのですが、翌日にはまたお米が出てきて不思議に思ったのです。