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人間が一番商売になる補穫物だったわけです。17〜18世紀ごろからヨーロッパ人、特にイギリスは東インド会社の社員や、カントリートレーダーと言われる地方貿易業者もたくさん来るようになり、このことについていろいろな記録を残しています。

そこでもいろいろ海賊が出てきますが、たとえばボルネオの近くでは、「お前たち、どうして海賊をするのか」とイギリス人が聞いたとき、「魚を取るより人間を捕るほうが楽だ」と地元の海賊は答えています。ですから、海賊そのものに罪悪感はほとんど何も感じていなかったというのがその時代の東南アジアの人々だと思います。

人間は、若い女性、子ども、老人、男を海賊風という季節風に乗ってぐるっと回り、あちこちの村を襲って集めてくるわけです。海賊といっても船だけ襲うのではないのです。

人間の需要はたくさんありました。奴隷市場というのがあちこちにあり、いまのジャカルタ、そのころのバタビアにもいくつかありまして、ヨーロッパ人もその捕虜奴隷を買いに来ていました。用途としては船を漕がすとか、魚を取らせたり、労働に使うということで、奴隷の需要はたくさんあったようです。

そのときに、どこ出身の奴隷かでいろいろ価値が分かれていました。たとえばさっき言いましたビサヤ出身の奴隷なら船を漕ぐのがうまいとか、ルソン島の人は計算がよくできるとか、その奴隷の出身地によって価値がいろいろ分かれたりしていたそうです。一番高く売れるのはやはり若い女性です。妾にしたり、需要が高かったといいます。あまり若い元気のいい男は危ないというので、いろいろ警戒はされていたようです。

では海賊行為をしながらぐるっと回って、さらってきた奴隷はどれぐらいの値段か。いまの価値で言うとなかなか計算できないのですが、1人の奴隷を持っていればそれなりのもので、王様は何十人、何百人と持っていたことを考えると、ちょうど車1台分ぐらいの値段ではなかったかと思います。

役に立たない年寄りや病人は、ボルネオで、祭、儀式のときの生け贄用として売られていたという記録もあります。ただ、そういった記録はほとんどヨーロッパ人が書き残したものですから、どこまで本当で、どこまで誇張した嘘かわからないところもありますが…

江戸時代中期、日本人の孫太郎という男が漂流しました。12月ごろなのですが、そのころ大西風と恐れられていた風に乗って漂流し、ちょうどミンダナオ島のダバオに漂着し、そこで奴隷になっています。そのあとスールー諸島のホロに売られて、ホロから、カリマンタンのほうにバンジャルマシンというところがあるのですが、そこに売られ、7年間奴隷として過ごしています。その漂流記『南海紀聞』というのがありますが、それを見ると、そのころの東南アジアの様子がよくわかり、非常に面白いものになっています。

 

 

 

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