ちょうどおなじころ、朝鮮海峡でも漂着事件があって紛争がおきています。朝鮮王朝の中宗39年といいますから、鉄砲伝来の翌年ということになります。この7月、一艘の唐船が朝鮮半島の全羅道の小さな島に停泊しました。そこで朝鮮側では偵察船を派遣して停泊船を調べてみますと、その船には90余人が乗り込んでいました。ことばが通じないので大きな字を書いて、どこからきた船で、なぜ漂流したのかを尋ねました。
ところが、停泊船は何もいわずにいきなり火砲をはなってきたのです。それで朝鮮側の兵士の二人が火砲の玉にあたって死亡し、二人が傷をうけました。そこでやむなく朝鮮側は火砲と弓矢で応戦しましたが、唐人らは楯に身を隠しながら、東の方に櫓をこいで向かいましが、たまたまこのとき風雨が起こり唐船の船足が鈍って、ついに捕獲することができました。
この時期、朝鮮半島の南端の地域には漂流船の事故が多発しています。種子島に漂着しなければどこかといえば、おそらく朝鮮半島でしよう。朝鮮王朝は中国に服属していましたから、漂流民を保護すればこれを本国に送還する義務があるわけです。中国は人民が海外に出ることを厳しく禁じていましたから、本国にかえれば厳罰に処されます。
送還しなければ、朝鮮王朝が漂流民に荷担して明政府に叛くことになります。だから朝鮮側も漂流民の拿捕と送還には熱心であったのです。
中国側の記録にも福建の密貿易者1000人を捕らえたとありますが、その記事のなかに、倭寇はいまだ火砲あらざるに、いますこぶるこれあり、ということが書いてあります。倭寇というのは日本人ですが、いままで日本人は火砲をもっていなかったが、要するに密貿易者が日本に火砲を伝えて、おおいに日本で流行しているというわけです。密貿易者は倭寇ですから、これはあきらかに倭寇が鉄砲を伝えたということをいっています。
倭寇は中継貿易をしているわけです。だから東南アジアの文物を取り扱います。日本に残っている鉄砲を丹念にしらべると、その源流を東南アジアに求めることができます。この時期、ヨーロッパでは日本で使用するような火縄式の鉄砲は廃れていまして使われていません。やはり日本に鉄砲を伝えたのは倭寇としか考えようがありません。
ややまとまりのない話になりましたが、倭寇の一端でもご理解いただければさいわいに思います。