4. 倭寇の構成員
ここでは王直に視点をあてて話をいたしましたが、倭寇の頭目としては徐海や徐惟学、李光頭、葉宗満などがいますが、日本人の名前があまり出てきません。中国の正史である明史をみると、真の和は十の三、和に従うものは十の七、と書いてあります。倭寇の討伐に加わった将軍仲律は淅江の者が十の五と言っています。倭寇が十人いるとそのうち五人は淅江省というわけです。さらに別の記録では海賊の多くは福建の者が多く、彼らは中国人の奸民であり、外国人の割合は十の一にすぎないとあります。外国人のなかには日本人、束南アジア、ポルトガル人などがいたとみられますが、いずれにせよ、主体勢力にはなっていません。鄭若曽『籌海図編(ちゅうかいずへん)』のなかで倭寇の出身地として、薩摩・肥後・長門・大隈・筑後・博多・日向・摂津・紀伊・種子島・豊前・豊後・和泉をあげていますが、ここから大挙して行ったわけではないと思います。王直は日本と深い関係がありました。また徐海は大隈の辛五郎という人物と接触しています。
有名なフランシスコ・ザビエルが日本への布教を思いたったきっかけは、薩摩の武士であったヤジロウでした。彼は薩摩から東南アジアへ流れて行って倭寇の群れに身を投じています。その後、ヤジロウは淅江省の寧波付近で中国人の海賊と戦って死んだと言われています。王直の倭寇のなかに日本人がいなかったとは思いませんが、香西成資のいうように日本人が主体になったことは、まずありません。
5. 日本の海賊
つぎに、倭寇に関連して日本の海賊について話をしたいと思います。香西成資は瀬戸内海の村上氏一族を海賊とみなしています。倭寇にしても、海賊にしても概念の規定が必要でしょう。そうでないと、誰もがそれぞれの発想から考えて、実体がわからなくなるからです。古代の海賊として著名な藤原純友がいます。彼の出身についてはくわしいことはわかりませんが、ともかく海上勢力をたばねて中央政府にたいして反乱をおこしました。