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実は彼ら富裕層は海寇と手を組んでいたのです。おそらくパトロンだったり、密貿易の分け前に預かるのが目的であったのです。したがって朱.が海寇討伐を徹底的にやると海寇がいなくなり、自分たちの儲けがあがらなくなる。こうした富裕層によって朱.は失脚させられます。その理由は、天子すなわち皇帝の命令を聞かないで独断で海賊たちを処刑したのは、皇帝の意向に叛くというものでした。彼は牢屋につながれますが、その後、みずから毒を仰いで自殺します。朱.の無念さは察するにあまりあります。彼の死によって海禁の取締りがゆるやかになり、ふたたび倭寇の活動が活発になります。

首領の李光頭は処刑されますが、王直は生き残りの手下と船団をまとめて首領の地位につきます。鄭舜功が書いた「日本一鑑」のなかに王直のことが書かれています。それによると、王直は明政府と対抗しますが、海賊仲間との競争もあった。徐惟学は同郷のよしみで行動をともにしていますが、ときには王直は明政府と取引をして他の倭寇の勢力を削ぎにかかっています。これはどういうことかといいますと、明政府が王直にあそこにいる海寇を捕らえて来い、そうすればおまえの罪は軽くしてやるというわけです。そこで王直は海賊の親分を捕らえて明政府に献上する。かくして王直は、勢いここにおいて益々あり、海上に二賊なし、ということになりました。

朱.のあと、胡宗憲という人物が淅江巡撫になります。胡宗憲も徹底的に海寇の活動を取り締まりました。胡は部下の蒋州と陳可願を日本に派遣します。これは王直が日本の諸大名と関係が深かったからで、その動静を探るためでした。王直は長崎の五島列島に屋敷を構えていました。胡宗憲はいくつかの条件を出して王直の投降をうながしました。王直の妻および母を保護している、もし投降してきたら民間貿易を許してもいいという具合です。このように明政府が本腰をいれて海寇を討伐しはじめますと、なかには妥協する者もいましたが、規模の小さな海寇はしだいに解体をはじめるようになりました。

やがて王直は部下をひきいて淅江省の船山列島で投降しました。大親分が投降したので、仲間や子分たちもどんどん投降していきました。投降した王直は胡宗憲の軍門にくだり、獄舎につながれ、2年後の嘉靖38年に殺されました。いくつで死んだのか、生まれた年がわからないのでわかりませんが、海賊として波瀾に富んだ生涯をすごしたことはまちがいありません。いっぽう胡宗憲は王直を討伐した功績によって太史台輔という上級職に出世いたしますが、数年後には政争に負けて投獄され、自殺してしまう。海寇討伐功労者の朱.とおなじように胡宗憲も悲劇の人と言わざるをえません。嘉靖のつぎ隆慶元年日本でいうと永禄10年にあたりますが、明の祖法海禁は解除されます。すると、民間貿易がおこなわれるようになり、密貿易は下火になりました。こうして倭寇の活動は沈静化していったのです。

 

 

 

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