さきに鉄砲伝来について話しましたが、この根拠になった史料は薩摩の南浦文之という禅宗のお坊さんが書いた『鉄砲記』という本です。そのなかで種子島の西村の長と砂上で筆談した人物を、大明の儒生の五峰と書いています。中国側の記録によりますと、五峰は王直とあります。この場面からも王直が教養のある人物であったことに疑いはないでしよう。倭寇とはいえ、多くの部下をひきいて密貿易をし、官憲とも戦わなければなりませんから、ただ腕っ節だけ強くてもだめで、無頼の徒をアゴで使うには、たしかに親分肌で気前がよく、任侠に富んで、さらに教養、要するに賢くなければいけないでしょう。王直はそんな人物であったのです。
中国の東南部の福建省、広東省、淅江省は倭寇の出身地になっています。はじめ王直は福建省出身の李光頭の手下となって淅江省の寧波・双嶼港で活動していました。このふたつの地域は中国人・ポルトガル人・日本人・南洋人など多くの人々が貿易をするために集まってくる、いわば国際密貿易の一大基地になっていたのです。
すでに王直は嘉靖10年代から密貿易に手を染めて、十年足らずのうちに、五峰(王直)の勢いここにおいて益々、海上に二賊なしといわれるほどになりました。押しも押されもせぬ倭寇の大頭目にのし上がったわけです。
3. 明の倭寇討伐
こうした倭寇の跳梁に対して明政府は討伐に乗り出します。つぎにこの話をいたしましょう。まず明政府は倭寇の策源地となっている淅江省に淅江巡撫(じゅんぶ)を置きます。巡撫とは省の最高長官のことで絶大な権力がありました。そしてこの巡撫は、やはり倭寇の根拠地となっている福建省の取締りをも受け持って海禁を徹底させました。
はじめに淅江巡撫に任命されたのは朱.(しゅがん)という人物でした。これが嘉靖26年の7月です。たいへん峻厳な人で、みずから沿海地を巡視してまわり、海禁の徹底をはかり、さらに海賊の拠点や密貿易の基地をしらみつぶしに襲撃しました。かくして翌27年4月、官軍は双嶼港を占拠して、王直の活動を封じ込めようとしました。このとき、王直の親分であった李光頭が捕らえられ処刑されます。そうすると王直が親分に納まることになった。明の倭寇討伐によって王直は倭寇の頭目になれたのですから、皮肉といえばそのとおりです。
朱.はこのようにして討伐の成果をあげていきましたが、ここで問題が起きました。それは沿海に居住する功臣層の地主や豪農、官僚といった人たちの討伐にたいする妨害です。