つぎに16世紀なかごろの倭寇の活動を追ってみましょう。この時期、倭寇の頭目としては許棟兄弟・王直・徐惟学・徐海・李光頭・葉宗満といった人物が名をあげています。まず王直のことを話しましょう。王直の本名は.(てい)といい、安徽省徽州府歙(しょう)県の出身といいます。誰の場合でもそうですが、世に出ると記録が残ります。王直が明の討伐の対象になるといろいろな情報が集められて、伝記もだいたい正確になっていきます。生まれた家など細かなことはわかりませんが、ただ貧しい家の生まれといわれています。
王直の育った安徽省は中国における塩商の活動の盛んな地として著名で、巨万の富を築く、いわゆる新安商人が多くいました。おそらく王直は、はじめは塩に関係した商売に手を出していたようですが、うまくいかず、やがて海寇の群れに身を投じるようになったと考えられます。倭寇の頭目として名をあげた徐惟学は王直と同郷ですし、李光頭の出身もこのあたりですからそう思われます。彼らは塩の商売に手を出したがうまくいかないので、仲間を連れ立って海寇の群れに入ったにちがいありません。
当時、倭寇は生糸・綿・水銀・鉄鍋・陶磁器・銅線・薬剤などの品々を密貿易品として扱いましたが、むろん禁制品もかなり入っています。これらの品々が数倍、あるいは数十倍の値段をつけて取引されますから、まさに濡れ手に粟という具合で、たちまちのうちに巨万の富を築くことができました。といってもつねに官憲の目が光っていますし、倭寇同士の縄張り争いや、さらに航海の危険も犯さなくてはなりませんでしたから、倭寇の稼業は、まさに命がけということになります。
明政府は倭寇の活動が活発になると、取締りを強化し、解禁政策の徹底をはかりました。すると、これに反発して倭寇が活発になる、それの繰り返しでしたが、やがて明政府も本格的な討伐に乗り出すことになります。
明の嘉靖41年(1562・日本の永禄4)に鄭若曽という人が著した「籌海図編(ちゅうかいずへん)」という本があります。そのなかの檎穫王直の条を見ますと、王直の人物像について次のように述べています。彼は任侠に富み、知略があって気前のいい親分肌で、取引の帳簿を管理していたといいます。倭寇の群れに身を落とす人たちは無頼の徒で、流浪人や無学の徒が大部分であったにちがいありません。そうしたなかにあって字が読めて勘定が得意というのは、かなり教養があったとみてよいでしょう。