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わかりやすく活動地域でいうと、対馬・北九州の勢力が朝鮮半島に活動した早い時期の倭寇、それに中国大陸沿岸、広州・福建・広東の三省あたりを根拠にした勢力が活動した遅い時期の倭寇に分けられます。時間軸から単純に前期倭寇と後期倭寇というように分けられますが、両者の主体勢力や活動範囲には大きな違いがありました。ここでは後期倭寇の実像を日本の海賊と関連して紹介したいと思っております。

 

1. 誤解の倭寇観

さきほど日本が中国大陸侵攻政策を進めるなかで、歴史の事実を国策的に解釈した事実を紹介いたしましたが、すでにこうした発想は江戸時代にもみられました。香西成資という軍学者が書いた『予州能島氏侵大明国記』という文章があります。長いものではなく、その内容は次のようなものです。

 

明の世宗年間(1522〜66)、倭の賊船が大明国の辺境を荒らしまわった。日本の年号でいうと、天文・弘治のころだ。辺境を襲ったのは、薩摩・肥後・博多・長門・石見・伊予の船団で、その総大将は能島・来島(くるしま)・因島(いんのしま)の三村上氏であった。この頃国内は戦いに明け暮れ・外国に出かけるのはむずかしかったが、島々は糾合して中国大陸の海辺を侵した。外国の人々は賊船を西南の倭と呼んで、これをたいそう怖れた。このとき、賊船は八幡宮の幟(のぼり)をなびかせて、海上に出没して船舶を襲ったので八幡(バハン)と呼ばれた。

能島家に日記の伝わらないのはまことに惜しい。その頃の日本人はみな勇敢で武術に長じていた。だから船子や物売りでさえ、海賊となって外国に出かけて戦うことが少なくなかった。とりわけ、能島家は水軍の職にあって代々勇猛と智謀をもって聞こえ、海軍の用兵においては、わが国はもちろん中国でさえ対抗できる者はいなかった。ところが、九州の倭寇は能島が主体ではなかったため明国に滅ぼされた。もし能島氏が九州を守っていたならば、また事情が違っていた。船子や物売りなどを集めて明国で武勇を振るい、その戦いぶりが外国の歴史に載ることはたいしたことだ。これは村上氏の勇者たる名声であり後世のほまれだ。

 

 

 

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