16世紀なかごろ、日本に伝えられた鉄砲は西洋の優秀な技術によって作られたというのです。金属の筒を作ることが、日本の鍛冶の技術でも十分可能であったにもかかわらずです。この時期、ヨーロッパでは大航海時代が現出し、西欧勢力が東アジア、極東アジアに進出してきます。鉄砲もこの波に乗って伝えられたというわけです。
だから種子島に漂着した船はポルトガル船でなければいけないし、伝えた人もポルトガル人ということになる。
ところが、当時の記録を調べてみると、ポルトガル船ではなく唐船とあって、ほんとうは中国船なのです。当時中国は明という国でしたが、貿易は国が主体でおこない、個人が商売のために海外に出かけることを厳しく禁止していました。これを海禁といいますが、要するに鎖国政策を明政府はとっていたのです。わたくしの研究によると、この船の正体は倭寇です。すると、種子島に漂着した外国船は倭寇の船ということになり、鉄砲を伝えた主体は倭寇ということになる。これがわたくしの新説ですが、いまだ通説には至っていないようです。
さきほど言いましたように明治政府は近代国家をつくるために外国の進んだ文物をたくさん学びます。その結果、富国強兵を進め、やがて中国大陸侵攻政策にまでエスカレートして、いわゆる植民地支配が行われるようになりました。こうなると文化水準の低いところから鉄砲が来てもらっては困るわけですし、海賊や倭寇の見方も国策を反映したものが声高に唱えられます。源義経は衣川の館では死なずに、海を渡ってジンギスカンになった。また日本の海賊は八幡大菩薩の旗をたてて中国の沿岸を荒らしまわって、大いに怖れられたというたぐいの話はみなこの国策を反映したものです。わたくしが学生の頃ですが、瀬戸内海や九州に海賊調査に出かけると、その昔、自分たちの祖先は船に乗って東南アジアや中国大陸沿岸に行ったと真面目に話していました。いかに国策によって捏造された歴史像の影響が強かったかがうかがえます。
ついで倭寇の話に移りたいと思いますが、どのような順序で話を進めるか、まずこの点を話しておきましょう。
倭寇を歴史辞典風にいいますと、鎌倉の末から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国大陸を襲った海賊に対する朝鮮や中国側の呼び方となります。このように倭寇の活動は13世紀から16世紀という長い期間におよんでいました。こうした倭寇の活動は中国の明、隣国の朝鮮王朝、それに日本の対外政策や、さらに東南アジア方面をふくめた諸国間の国際関係を反映しているためたいへん複雑で、ひとくちで倭寇を説明することはできません。