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ドレイクは、海で攻撃するよりは陸上で攻撃したほうがいいだろうと考えました。

南米の北西部にウラバ湾という湾があります。現在のコロンビアにあります。ドレイクは湾の中にポート・フェザンというスペイン人にわからない秘密基地を作って、そこの基地から小さなボートでパナマ地峡に出て上陸する。そしてパナマからノンブレ・デ・ディオスまで陸上輸送する銀を襲おうとする。最初は失敗するのですが2度目に大成功して、ものすごい量の銀を獲得します。

そこでますますフランシス・ドレイクは大胆になり、今度はパナマ地峡などケチなことは言わないで、もっと広くスペインを荒らしてやろうと考えました。彼は1577年の11月15日に5隻の船を率いてプリマスス港を出て、今度は真っ直ぐ大西洋を下って、マゼラン海峡を通って太平洋に出る。スペインの太平洋側の現在のペルー、チリにあたる港を荒らし回る。それからカリフォルニアに出て、また大変な獲物を手に入れる。スペインの宝船は大西洋に航海していましたが、太平洋にもスペインの宝船が通っていたのです。

それはなぜかと言うと、つぎのようなわけです。太平洋はご承知のように、1520年にマゼランという人がマゼラン海峡を発見してそこから太平洋に出る。太平洋を横断して途中マリアナ諸島のグアム島に寄ってフィリピンに行きます。マゼラン自身はフィリピンのマクタン島というところで原住民に殺されてしまうのですが、スペイン人はフィリピンを占領することになります。そして1571年にマニラという町を作ります。いまのマニラです。

そうするとマニラとメキシコの間の交通を開かなければならない。ところがスペイン人は何度もメキシコやペルーから船を出して、太平洋を横断しているんですが、行きは何とかフィリピンにたどり着くんです。ところが帰りがどうしてもうまくいかない。逆風に悩まされて元来たところに戻ってしまう。難破したり、行方不明になる。

スペインがマニラを建設する3年前に、アンドレス・デ・ウルダネータという修道士等がそれまでの航海者が取ったことがないような新しい航路を試みます。大圏航路です。

つまり思い切って日本の近海を通る大圏航路を使うと、だいたい3か月でアメリカ大陸に着くということがわかりました。カリフォルニアに行くとメンドシニノという岬がありますが、そこに着きます。そこでメキシコのアカプルコとフィリピンのマニラとの間の航路が開けたのです。

なぜそんな航路を開いたかというと、メキシコからあるいはペルーからの大量の銀を運ぶ。そしてマニラに持って行って、マニラ在住の中国の商人からいろいろな貴重品を買う。メキシコやスペインの商人が喉から手が出るほどほしい貴重品は、中国の絹、あるいは絹織物、象牙の製品、東南アジアの香料、胡椒とかニクズク、それから陶磁器です。こういうヨーロッパに持っていったら高く売れる貴重品を銀で買う。そしてそれをメキシコに運ぶ。現在でもメキシコの旧家やお金持ちの家に行くと、東洋の陶磁器とか中国の物がずいぶんあります。

 

 

 

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