ディオニデスはなかなか頭のいい人で、
「国王といっても、それはお互いの商売である。お前さんは国王という商売をやって略奪している。俺は海賊という商売をやって略奪している。お互い同じことではないか」
と言って抗弁する。これは、国際法的な概念が定着する以前にあっては、一面の真理だと私は思いますが、しかし、そこで真理が通るか通らないかは、その時に保持している力の差です。
アレキサンダー大王は大変な武力を持って家来もたくさんいて、捕まえてしまったのですから、この場合は力のあるほうに軍配は上がり、捕まえられたディオニデスの理屈は通らず、殺されます。アレキサンダー大王より何年先に死んだか知りませんが、言った言葉の当否はどちらに非があってどちらに利があるか、あるいは、反社会的行為というものの本質については、現代の私どもが公平に考えてみる必要があると思います。
つまり、泥棒にも三分の理という言葉がありますが、そこで言う泥棒というのは、世の中の秩序を乱すものです。では、国王がよその国を攻めて、多くの人々を殺戮し、国を簒奪するのと、海賊がその船や彼らが他国から略奪してきたものを略奪するのと、どれほどの差があるのかという問題に関しては、私どもは一応考えてみる必要があるのではないかという気がします。
もちろん、現代の法秩序の上では、国権の発動と私的犯罪という風に分けられるのでしょうが、海賊の歴史は、それを裏側から見せているわけです。
もう少し支配圏が拡大してゆきますと、海域支配というのは、どうしても寄って立つ根拠地が必要です。たとえば地中海にはいろいろな勢力が勃興しますが、ローマ帝国が各地に属領というのを持って、そこから品々を集めて繁栄するのです。穀物、鉱物、はては奴隷まであらゆる資源を集めて、紀元前から紀元後にかけてローマ帝国は繁栄します。
ところが、ローマは一日にしてならずで、その間に海賊の被害によってローマの市民が、日常の食べ物にも困ってしまうという事態が何回か起きています。その海賊の中で1人だけを挙げるのは大変難かしいけれど、エーゲ海周辺から小アジアの南岸あたりに拠って立つ海賊が、穀倉地帯のアフリカ北岸や地中海東部から運ぶ、特に穀物の小麦をみんなかすめとってしまうという状況が起きます。そこで有名なポンペイウスという武将が、地中海周辺の海賊を一掃しようと、兵を挙げます。