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すなわち幼い頃から奉公している人物が昇進するのは普通でしたが、一度そのキャリアが中断されれば昇進の可能性は制限されました。ですから二十三歳で京都で再び商家に勤めるようになったとき、梅岩の地位は最も下でした。

しかも実家で暮らした八年の間に、梅岩の昇進をさらに遅らせるようなことが起きていました。梅岩は、自分の天職は商人としての道ではなく、宗教の師として人生を生きることだと決心したのです。最初、梅岩は神道を普及させるために鈴を鳴らしながらまちを歩き回りました。これはあまり成功しませんでした。そこで梅岩は仕事の合間に勉学にいそしみ、人々が説教をしてほしいと望む宗教的なメッセージとは、禅仏教と朱子の新儒教を結合させたものだということに気がついたわけです。

梅岩のこういった行動はいろいろな意味で当時の一般の様相―何でもすべてその場にあり続けるという徳川時代の規則に反していました。宗教を天職とするのは要するに親から継ぐということで、商人になった農民が宗教家としての素質をもっているとは一般には考えられていませんでした。さらに梅岩の時代には、商人と農民も専門的な学問をすることは知られていましたが、きちんとした勉強はまだ主に武士階級が占有していました。

 

 

 

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