したがって、ただ単純に「エイシャン・バリューは良いのか、悪いのか」あるいは「西欧化でない近代化があるのか」と問うのではなくて、「いかなる問題に対する解決方法としていかなる発想や提言があるのか」という観点からこの問題を考えないと、議論がすれ違ってしまうのではないかと思う次第です。
それからもう一つ言えることは、その提言に基づいて問題を処理すると良い結果が出るということがないと、つまり結果が良ければ支持されるし、結呆が良くなければ問題があると言われるわけで、そういう意味では「東アジアの奇跡」と言われたときは、「エイシャン・バリュー」があるからと言われ、「アジアの経済危機」になると、「やっぱりエイシャン・バリューではだめだ」と言われるわけです。ある程度はやむを得ないわけで、そういう実績によって証明していくよりない。その観点から言うと、日本が本当に二十一世紀の南北問題解決のモデルになり得るのかどうかということは、われわれ自身が日本の国内において、日本人自身の社会において、二十一世紀の世界のモデルとなり得るような国家・社会建設ができるかどうか、そして、それをつくることこそが実は世界に対する日本の貢献になるのだということではないか、そういうふうに私は感じるのです。