中世ヨーロッパなら聖書、アジア・東洋なら論語とか、イスラム世界ならコーランとか、そういう絶対的な価値があって、それが「正統」であり、これに対して、それから外れるものが「異端」だったわけです。
このように中世と近代では価値観が違うわけですが、今、われわれが近代的あるいは西欧的な価値観のマイナス面を突き付けられて、人類にとって解決しなければならないいろいろな問題と直面するとき、特に成長信仰が限りなく肥大していけば、GNPは限りなく増大して、それに伴ってエネルギー消費、食糧消費、人口の増加、そして環境悪化といった墓穴を自ら掘っていくことになるわけですが、これを何とかしなければならないと思うときに、その解決策を示唆してくれるのは、実は近代的なものとまったく異質なものであるわけで、それが中世的な英知なのです。中世はもちろんいろいろと問題もありましたが、その点を捨象すれば、近代に対するオールタナティブとしての意味は否定できないわけです。
それから、西欧的な発想とまったく違った発想、それは非西欧世界の発想であり、英知なのですが、それに頼らなければならない場面も出てきていると思うのです。もちろんいろいろなマイナス面もありますが、それを捨象すれば、西欧のもたらした、例えば行き過ぎた個人主義による社会や家族の崩壊に対して、どう対応しようかというとき、やはりそれは非西欧、例えば「アジア的価値」なのかもしれないわけです。