日本はテポドン発射事件によって大騒ぎになったが、韓国にとっては自らの頭上を通り越すくらいのミサイルは何十発もあるから、その程度で日本が騒ぐことにつき合う必要はなかった。米国も、当初の関心は北朝鮮からイランやイラクヘのミサイル技術の移転問題だけであった。
このように、日米韓三国の態度は一致せず、しかも北朝鮮はミサイル発射停止を約束しておらず、まして「あれは人工衛星だった」と言っている中で合意をとりつけるのは、大変な難交渉であったのである。
その成功は、九八年末にペリー氏が「日米韓の歩調を乱してはいけない」との原則をかかげ、九九年六月ころまでに「再びミサイルを発射したら承知しない」との日米韓の共同戦線をつくったことによるところが大きい。これは日本の立場に近いものとなったが、その背景には、韓国の金大中大統領が親日政策をとったこと、韓国の国会が北朝鮮に対してもう少し強硬な態度を示すべきとの態度に立ったこと、九九年初頭の「国防報告」や「CIA報告」によって、米国が北朝鮮のミサイルを脅威として認識し始めたことなどがあった。こうした共同戦線ができたことで、北朝鮮のつけ入るすきがなくなり、合意が得られたのである。