例えば、デートしようとするとき、最近では大体「どのあたりで五時ごろ」と大まかにしか決めず、最終的には全部携帯電話を使って決めている。「大分遅れたから時間を変えてくれ」とか「場所も変えてくれ」とか、「大体その場所がわからない」とか。細部調整をすべてそのときにやっている。学生なんかを見ていると、完全にこの一、二年で変わった。つまり、ゆらぎを吸収できるようになった。
吸収できない過去の例ではどうしていたかというと、「何月何日の何時に数寄屋橋で会いましょう」なんて決める。これですれ違いの「君の名は」の悲恋になる。今の学生なら、「何で携帯かけなかったの」ということになり、ドラマにならない。愛染かつらもそうで、列車に遅れる。つまり、工業社会の技術的限界によって、ドラマが始まっていた。しかし、考えてみると、どっちが幸福かというと、悲劇が起こるのが幸福ではなくて、とにかく会えればいい。そうしたら、ゆらぎを吸収できる技術のほうがいい。逆に、ゆらぎを許したほうがトータルとしてはいい。ゆらぎを許さないようにすると、十分前に来るとか、何時間も待たされるなんてことをやっている。多くの人数の人を長時間も前から拘束して、ゆらぎを避ける。何が起こるかわからないから、十分余裕をとってやっているのは、複雑系理論の欠如の証拠にほかならない。
これまでは、ゆらぎ対応の方法ができなかった。通信もなく、持って歩ける小さな端末もなかった。