このように、アメリカでもそうであるが、物資の集散には、一つは運河や河川であるが、何と言っても明治以後は鉄道が主役になった。その中で、海と陸上を結ぶ鉄道が重要で、日露戦争のときも結局、兵站線が海上支配権に左右され、日本海海戦までは危なかったという教訓が強く人々の記憶に残ったのである。
結局、技術文明において国家と海洋を考えるときに、特に二十一世紀型国家を考えるときには、「海洋」の定義の拡張がいるのではないだろうか。
ところで、歴史を振り返ると、海外からの侵入については、日本は元寇ぐらいまでさかのぼらなくてはいけないが、兵器として「テツハウ」という言葉が一番はやく出てくるのも元寇であり、当時は鉄砲を「テツハウ」と仮名で書いていた。要するに、「テツハウ」というロケットのような兵器にやられたのであり、戦争のカルチャーが全く違っていたのである。「やあやあ、我れこそは」とか、「飛び道具は卑怯だ」と言っても、遠くからボンとやられたらおしまいであった。
元寇のころはともかくとして、種子島に鉄砲が伝来したということであるが、これは種子島まで日本が押しやられてきたような感じではないか。つまり、赤道直下まで日本人町はあったが、あの辺で西欧勢力が出てきたときに、なぜ撤去せざるを得なかったかというと、鉄砲で負けたからではないかと思う。日本刀を輸出し、それは非常に良い鋼だったけれども、鉄砲には勝てなかった。