しかも、こうした陶磁器はジンバブエだけではなく、先ほど挙げたようなアフリカ東海岸の港町からも続々と出てきたのです。これこそ、さかんだったインド洋貿易の証拠品です。そして、アフリカからは象牙や香料、金などが中国へもたらされました。
十五世紀初頭から世紀の半ばまで、鄭和は計七回にわたってインド洋航海を行っています。一四九二年のコロンブスのアメリカ到達に始まるヨーロッパの大航海時代に、ほぼ百年も先んじていたわけです。バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って東アフリカに達したとき、彼は、三階建て、四階建ての立派な建物が並ぶ東アフリカの港町の立派さに驚いたといいます。同じように、東アフリカの黒人たちも、それ以上にびっくりした。というのも、ヨーロッパ人の乗ってきた船が、あまりにも小さくて貧相だったからです。それまで鄭和の船のような大型船を見慣れていた人々には、まるでボートのようにしか思えなかったのです。よくまあ、こんな木の葉のような船でやってこられたものだ、という驚きでした。
しかし、このヨーロッパのインド洋進出をきっかけに、それまで長年にわたって行われていたアジアーアラビアーアフリカを結ぶ交易網はずたずたに破壊されてしまいました。ヨーロッパ人の銃によってです。そのあげく交易の利権はヨーロッパに奪われ、ヨーロッパ中心の東方貿易の時代がやってきます。