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7. 新労働党政権下の改革の方向

(1) エージェンシーに対する労働党の対応の変化

労働党は当初、1988年に発足したネクスト・ステップス・イニシアティヴの背後にある動機について、多くの懸念を抱いていた。例えば、ある労働党幹部は、中央省庁のラディカルな改革が行われる前に、超党派的議論が行われることを要求した。また、労働党の陣笠議員は、ネクスト・ステップスに批判的であり、「忍び寄る民営化」に疑問を提起し、ネクスト・ステップスは究極的には中央省庁の一部の売却に至る踏み台であると指摘した。労働党の公務員制度に関する指導的専門家であるJ.ギャレットは、さらに批判の論調を強め、ネクスト・ステップスは公務員身分を剥奪し、公務員倫理の変質を生み出し、議会への責任を低下させることになると指摘するまでに至った26)

このようなネクスト・ステップスについての労働党の批判は、前述のように大臣責任の低下についての不満を含んでいた。国会議員の質問の処理方法に関しても国会議員の間には不満があった。NSAsの発足とともに、文書回答を求める議会質問については、エージェンシーにかかわる問題はその長が回答することになった。1990年、これらの回答のコピーが下院図書館におかれることに政府は賛成した。しかし、いく人かの下院議員は大臣責任の原則の弱体化と彼らがみなすものに不安を抱いた。例えばG.カウフマンは、『デモクラシーの衰退』(Diminishing Democracy, 1992)という著述において、現実の問題点として、エージェンシーの長からの公式の書面が下院議員にだけ参照できるということは、議会質問への大臣回答が公表され、国民の誰でも議会議事録の中で読むことができる旧システムと比べて不十分なものであると論じた。二つの下院省庁別特別委員会は新制度を批判してきたが、政府は当初、この問題に関する意見を変えなかった。労働党下院議員のP.フリンおよび学会のT.リンズはエージェンシー長官の回答書を非公式に公表し始めた。その後1991年11月、政府も結局譲歩して、すべての回答書は公表されるべきであるということを受け入れるに至った。1992年、これらの回答書は、議会議事録の補遺の中に含まれることになった27)

大臣責任に関する労働党の懸念は、内務大臣のM.ハワードが刑務所庁の長官D.ルイスを解任した1995年に頂点に達した。労働党が内務大臣の辞任を要求するに至ったこの事件において、刑務所の日常的運営への大臣の介入の程度をめぐって、大臣と長官との間で激しいやりとりがあったが、それはまたNSAsにおける「運営」と「政策」の分割線を明確に画することができるかどうかの論争を引き起こした28)。労働党は分割線を明瞭に引くことができないと考えたと言われており、ある新聞報道によれば刑務所行政をエージェンシーとして存続させることを再検討し、内務省の中に再編入することを考えていると報じられていた。

 

 

 

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