そして第4に、こうした議論とは別次元において、公務員数の削減が政府の優先的公約として掲げられ、その方便として既存の行政組織の独立行政法人への移行が使われるという事態が生まれたことである。当初の橋本内閣では概ね10%、続く小渕内閣で20%、さらに99年1月の自民・自由連立政権発足の合意事項としての25%削減という形でそれらの数値の合理的根拠が全く不明のまま、公務員数削減を一定期限内に実現することが既成事実化された。そして、これを充たすために特定独立行政法人の職員の身分を国家公務員としながら、それらを総定員法の枠外に置くことで、実数ではなく定員数を削減するという形式的な減量化が政治目的化されたのであった。すなわち、本来は行政の「機能」の減量化のための独立行政法人制度が、行政の「規模」の減量化の手段と化したのである。
以上のように、本来は行政の機能の垂直的減量化を目的とした独立行政法人導入は、制度設計の過程での政治的環境の作用により、当初の機能分離によるスリム化から大きく外れ、一方では郵政三事業を焦点とする公務員の身分保障という争点が優先され、他方では総定員法の枠外におくことによる公務員数削減の数合わせの議論に矮小化され、いずれも理屈を越えた政治的処理により、結果的に極めて不自然な態様へ帰着したと言えよう。こうした事態に対しては、前述のようにマスメディアなどからの厳しい批判が寄せられたことは記憶に新しいが、行革会議の直接の当事者からも強い疑問や懸念が表明されてきている。水野清元行革会議事務局長、八木俊道元行革会議事務局次長は、これらの経緯を回顧し、それぞれ次のように述べている。
「実は、郵政三事業を独立行政法人化しようというこっちの基本的戦略があったわけですが、郵政三事業は独立行政法人は、次は必ず民営化だというふうに思い込んでいますから、誘い出すための『公務員型』の構想が他に利用され、数はこなせましたが、みんな公務員のまま外に出るという形になってしまったわけであります。当初考えたように、本当にこれで日本の行政組織は大競争時代に耐えられるのか、心配しています」10)。
「1997年末時点におけるいわゆる政治主導による調整を経た最終報告やこれを受けた関係法のこの時点での決着が、やがて一連の措置を実施する段階において、その時点における我が国経済社会の現実に十分整合するかどうかは、なお今後に問題を残すものであると見なければなるまい」11)。