まず当時の政治状況を簡単にさらっておこう。参院で大幅な過半数割れを生じていた小渕内閣は、秋の臨時国会(金融国会)では野党案を丸のみせざるをえない状況に追い込まれていた。危機感を強めた小渕内閣は政権安定のため自由党に連立を持ちかけ、98年11月に党首間で基本合意、99年1月には自自連立内閣が発足する。しかしそれでも参院の過半数割れ状況は改善されず、小渕首相は公明党への接近を模索する。早期解散をきらう公明党は自民党の国会運営に協力しつつ次第に歩み寄り、5月には「自自公」路線を明確にして連立参加を内定、10月には自自公連立内閣が発足する。自社さ連立(社さは閣外協力)のもとで行革会議の審議が進み、また基本法が制定され、自自連立から自自公連立への過渡期に通則法が制定され、自自公連立のもと個別法が制定されていったのである。
通則法案の審議では、自民、自由の両与党は、中期計画終了時の組織、業務の見直しが、廃止、民営化等の大胆な改革へのステップになりえるものでなければならないことなどを強調した。公明党は当初、中期計画終了時における存廃や民営化の決定基準を定めることや、非公務員型の比率を当面50%以上とする目標を明記することなどをはじめ、より徹底した内容の改革を求めて反対の立場をとっていたが、最終的には後にふれる附帯決議によって要求がほぼ認められたとして賛成にまわった。この間、公明党が政権への参加を内定していったことは先に見たとおりである。社民党は与党として基本法に賛成した経緯もあって正面からの反対にはまわらなかったが、自社さ連立の時代に独立行政法人化にあたっては職員団体の十分な理解を求めるべきことを確認した経緯を持ち出し、その遵守を政府側に強く求める質疑を重ねていた。
一方で、民主党は独立行政法人化それ自体には賛成であるとしながらも100)、これによってどの程度のスリム化が実現するのかが不透明であるなどとして批判した。民主党の関心は国家公務員の定員削減にあり、独立行政法人への移行をもって定員を削減したとするのは「まやかし」だといった趣旨の質疑を繰り返していった。これに対して共産党は独立行政法人制度のねらいは一定期間後の民営化や廃止にあるとして、制度それ自体を批判し、とくに国立病院が独立法人化により採算優先の運営がなされることで不採算医療の切り捨てにつながる危険が大きいことをはじめ、改革が国民生活部門の切り捨て、国の責任放棄につながるものだとして政府を厳しく追求していた。
こうして通則法案を含む中央省庁等改革関連17法案は、自民、自由の両与党に加え、自自公連立路線を明確にしつつあった公明党、そしてかつての与党時代に基本法制定に関与した経緯があった社民党も賛成にまわり、両院とも賛成多数で可決された。