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ハ 徳川家康は、秀吉の方針とほぼ同じであった。

1612年4月、禁教令を発す。支倉常長の日本出発の前年であり、その結果は前述のとおりであった。

(2) 小栗上野介忠順(ただまさ)

伊達政宗と家康が日本・スペイン交渉について数度にわたり話し合っているところから、支倉常長のスペイン行きは家康の意を体した旅行であったとの説もあるが、少なくとも国を代表しての使節ではなかった。

その点、小栗は、日米通商条約批准のための遣米使節の一員として1860年(万延元年)米艦ポーハタンに乗船、サンフランシスコに向かった。同航した咸臨丸には福沢諭吉、勝海舟等が乗船していた。

小栗は、米国との交渉後、勝海舟等とは分かれ、サンフランシスコ−パナマ運河(現在の閘門式運河の竣工は1914年)−ニューヨーク・ワシントン−アフリカ南端を回り−インドネシア−日本と世界一周航海をしている。世界を見聞し、各所で次のように社会システムを直接肌で感じ、また、最先端技術を勉強している。

・ハワイ………新聞を目にし、国民が情報を共有していることにビックリ。民主主義の根幹を観ずる。

・シスコ………巨大な造船所を見学し、先進国の工業技術に圧倒され、日本における近代工業の必要性を痛感する。

・パナマ………ふん煙を上げて走る蒸気機関車を見てビックリ。

・ワシントン…「人民の人民による人民のための政治」、大きな刺激を受けた。共和制の政治システムを見、来るべき日本の社会に思いをはせる。

・アフリカ西岸ルアンダ…奴隷売買を見る。日本の将来を憂うべき事態に遭遇。大国に踏みにじられる小国の姿は、アジア各国と日本が直面する危機的状況を思い起こさせた。

8ヶ月間の大航海の中から、列強が押し寄せてくる危機の中で、これからの日本の将来がどうあるべきかに思い至ったことであろう。

(3) 岩倉使節団

岩倉具視は、日米不平等条約改正のための特命全権大使として、その上に三条実美太政大臣を、そしてその下に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充、板垣退助、大隈重信、伊藤博文という当時の政府の中枢とともに、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけての632日間、遠く長い米欧の旅に出た。

 

 

 

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